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アイが小学五年生に上がった時、一つ目のターニングポイント――善の人間と出会った。
当時の彼は、元々の引っ込み思案な性格が一層極まっていた。地味な黒髪で、いつも陰鬱な表情をしていて、ボソボソと何をしゃべっているのか聞き取りずらく、かつての女子人気はどこへやら。顔が良くても、俯きがちで辛気臭い雰囲気を纏っていれば台無しである。
アイ自身、他の同級生の輪に入りたがらなかった。良くも悪くも配信で大人たちと交流しまくったせいだ。何で百円ぽっちのお小遣いで嬉しがるのか、何で給食の献立で猿みたいにはしゃげるのか、何でプールの時間にちょっと肌を見せるくらいで騒ぎ立てるのか、考える事がおこちゃますぎて理解できない。家庭環境が複雑なのは教師間で共有されていたため、先生たちが目を光らせてくれたおかげでいじめられる事はなかったが、アイは自然とハブられるようになった。
(動物はいいよなぁ。バーカ!ってどれだけ言っても、嫌な顔一つしないでもごもご餌を食べてる。ボクもそれくらい単純になりたいよ)
ある日の放課後。家に直帰しても何も面白い事がないと思ったアイは、四匹のウサギがいる飼育小屋に目を付けて、ひたすら「バカ」、「デブ」、「チビ」と罵る遊びをしていた。サッカーボールがこちらに飛んできて、子供がやって来ると、ただ見ているだけのふりをする。教員が「まだそこにいるのかい?」と話しかけてくると、「あとちょっとだけ」と無害ないい子のふりをする。このスリルを楽しんでいた。
(へん、バカなやつら。どいつもこいつも簡単に騙される)
アイはウサギの方に向き直る。ちょっと、長めに罵ってみようか。
「バーーーーーーーーーーーーーーーーーーー~~~~~~~……」
「あれ? 君もウサギのお世話係だったっけ?」
「あがっ!? ゴホッ! ゴホッ!」
不意に声を掛けられて、慌てて咳をしてはぐらかす。声を掛けて来た男の子――イブキは、「大丈夫? 最近寒くなって来たもんねぇ~」とマイペースに返した。
アイ目線のクラスの線引きにおいて、自身をカーストのトップ・五段階評価に分けるとすると、イブキはその中で一番下っ端の分類であった。
大人達の人気者(アイ)
クラスの人気者
普通
どうでもいい
バカ(イブキ)
こんな感じだ。この「バカ」は頭の出来以外に「ぼけーっとしてて何となく舐めていい雰囲気」も含まれている。同じクラスであったと発覚してからも、認識を改めるつもりはなかったし、名前すらも覚える気がない。なので放課後、飼育小屋に立ち寄っては「あいつが来るまで何回バカって言えるかゲーム」を開催して遊んだ。
イブキは全く不審に思う素振りがない。やがてその一人遊びは、どんどんバラエティに富んでいく。
「あっ、アイくん見っけ! また遊びに来てるんだねぇ」
「うん。もこもこで可愛いよね、ウサギ」アイは微笑む。「あれ? あっちの方、何か光ってない?」
「えっ、どこ?」
「バカ」小声でこっそり囁く。「あっ、今、向こうにびゅーんって飛んで行った!」
「えー? 見えないよぅ」
「バーカ」
アイは「隙をついてバカって言うゲーム」、「言葉の中にバカを混ぜるゲーム」、「欠伸をするふりしてバカって言うゲーム」、「間違えたって言えば、名前をバカに変えても許されるのかゲーム」などと様々な遊びを考案して、イブキをひそかにからかった。
ただ、お世話係とは、子供一人でやるには荷が重い。イブキの受け持つ係には「坂蔵 魅歌 」という女の子のペアがいた。
「もーっ! 遊んでないで真面目にお世話してよね!」
彼女が来ると、本格的に世話係の仕事が始まり、イブキはアイに構ってられなくなった。至極真っ当な発言でとてもいい子なのだが、アイにとってはお邪魔虫。アイは「邪魔するなクソブス」とこっそり悪態をつくと、二人の見えないところで小屋を囲っている網を蹴っ飛ばした。
ガシャンッ! 網が思いの他大きく揺さぶられて、どこかのネジが一本すっ飛んだ。アイはギクリとする。すぐさまイブキと魅歌の所在を確認すると、彼らは忽然と姿を消していた。どうもお世話係の日誌を提出しに、職員室へ向かったらしかった。
(ネジ、どこ行った? ……探すの面倒だな。知ーらない)
公然とバカと言っても、相手が気付かなければ発言した事にならないのと同じように。見られていないのであれば、何もしなかったのと道理なのだ。アイは人知れず帰路に就いた。
翌朝。クラスのホームルームにて、担任からウサギが二匹脱走した事を聞かされた。
一匹は何とか捕獲に成功。だがもう一匹は、車に跳ねられて死んでいるのが発見された。
どうやって脱走したのか。原因に心当たりがあったアイは、罪悪感よりも先に、誰かが目撃していないか、ひそかに自分を指さして噂しているんじゃないかと、心の中で冷や汗を掻いた。だが、原因究明の集会を開くまでもなく、いの一番に挙がった説は、「お世話係の生徒が、鍵をかけ忘れた」というものだった。
「ぼくが、鍵をかけ忘れちゃったんです! 友達と公園に遊びに行こうって約束してて、その事で頭がいっぱいになっちゃって……っ!」
泣き腫らしながら自ら犯人を名乗り出したのは、イブキだった。魅歌は当日ピアノの稽古があったという事で、世話の途中でイブキに一任したらしい。
脱走の話が出た時点で担任の元に駆け寄り、正直に話したイブキを、誰も責められなかった。「鍵はきちんとかかっていた」、「網が外れかけていて、穴を掘った形跡もあるから、君のせいではない」と擁護の声が方々から挙がったが、イブキは頑なに自分のせいだと決めつけていた。
亡くなったウサギに愛着があったのだろう。思い出しては泣いてしまう有様で、とても授業を受けられそうになかったので、イブキは担任に連れられ、早退する運びになった。
ランドセルに教科書を詰め込み、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を懸命にこすって、少しずつ帰宅準備を進めるイブキ。そこで初めて罪悪感が滲み出て来たアイは、声を掛けるべきか迷った。
でも、自分のせいだと言い張る相手に、何て言ったらいい……?
現場の情報から分析すると、イブキは無実であると読んでいた。何せ、飼育小屋内の動物の世話を子供に任せるというのは、簡単なようで実は重責が圧し掛かる事。うっかり鍵をかけ忘れてしまう生徒がいるため、おいおいきちんと教職員が施錠確認する決まりになっているのだ。
仮に施錠確認を怠ったとして、大の大人が、物事を教える立場の人間が、泣きじゃくる生徒に全責任を押し付けるだろうか? ――一向に名乗り出ないというのはつまり、真犯人はアイという事になる。恐らく校内が静まった頃に、外れかけた網の隙間から脱走してしまったのだろう。
謝らなければならないんだろうか。脱走させてしまった事をみんなに。あんな風に情けない姿で?
言いたくない――……イブキが真っ先に名乗り出てしまったから、どうしたって自分は惨めな後追いになる。散々バカだ、バカだと罵って来た下っ端より、自分の方が劣っている事になる。
言いたくない――……自分が心から反省の言葉を捧げるのは母だけだ。ウサギが一匹死んだくらいで、大袈裟だ。
言いたくない――……このまま黙っていれば、誰にもバレる事はない。何も知らない生徒でいられる。
結局、アイはメリットが何もないと判断し、黙秘を貫き通す事にした。イブキを励ます集団から、そっと離れようと決意する。すると、アイの動きに気付いたイブキが、目に涙を溜めて近寄ってきた。
「アイくん、ごめんね。君だってウサギが大好きだったのに、ぼくのせいで死なせちゃった……。ごめんね、ごめんね」
「っ!」
アイは一瞬、イブキの悲痛な泣き顔に目を奪われた。
ちょっと……可愛いと思ってしまった。
最終的にウサギの脱走事件は「先生側が鍵をかけ忘れてしまった」という話でまとまった。施錠したかどうかを記録に残してはいないので、ひょっとしたら忘れてしまったかも……という事にしたいらしい。
職員たちのフォローによって、イブキは一応納得した。埋葬に参加し、気持ちを切り替えると、彼はまたお世話係に精を出すようになった。一週間も経てば気にしなくなるだろう。
しかし、アイは初めて湧き上がった感情を忘れはしなかった。
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