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【2】

外に出ると、うっすらと空が明るい。そしてやっぱり霧が出始めていた。 この街の朝は、どこかくすんでいる。アスファルトの割れ目から雑草が伸びていて、そこに蹴り飛ばされた空き缶が転がっていた。二人はそれを避けながら歩く。 「お前さ、勝手にやったんだろ?ウィール締め過ぎなんだよ」 カミロはボードの前輪を摘み上下に動かしてみる。だけどそれは全く回らずにいる。 「だってよ…安定しなかったんだぜ?だからギュッて…こう、締めちゃってさ」 テオのスケートボードのウィール(タイヤ)が上手く回らなくなっているのは、自分でメンテナンスをして失敗しているからだと、カミロはわかっていた。 「馬鹿力で締め上げたんだろ。言ってくれればすぐにやったのに」 「こんなことになるなんて!あー、あの時の俺はバカだった!カミロにすぐお願いすればよかった」 大切なスケートボードを壊してしまったショックから抜け出せないのか、テオは頭を抱えてしゃがみ込んだ。 「あははは、大袈裟だな。大丈夫だって。修理すれば今夜にはまた滑れるから」 「…マジで?」 「これくらいなら、ちょっと修理すればすぐに使えるよ」 落ち込んでしゃがみ込むテオの頭を軽く叩いてやる。さっきまでカミロの上に乗り、激しいセックスをしていた男とは別人のようだ。今は子供のように拗ねている。 「マジかー!そうか!ひゃーよかった、助かった!さすがはカミロだな。じゃあ、今夜もまたいつものところで待ってるな」 拗ねていた子供はカミロの言葉を聞き、急に元気になったようで、すくっと立ち上がり笑顔を見せた。 霧が濃くなってきた。 周りの景色がぼやけ始め、はっきりと見えるのは近くにいるテオだけとなる。 「じゃあ…今夜」 長身のテオを見上げていると、するりと頬を撫でられ、今夜の約束をされた。 拗ねた子供だったくせに、また急に大人の男の顔をする。霧の中だってそれは見えている。 「あー、もう霧が濃くなってきた…ったく、こうなると滑りにくいんだよな」 テオの壊れたボードを抱え、自分のスケートボードに足を乗せた。 「えっ!俺ひとりで歩いて帰るのかよ!途中まで一緒なのに?」 「当たり前だろ?壊れたボードは俺が回収したんだから。じゃあ、夜な!」 『えーっ!』と大きな声を上げるテオを置き去りにして、カミロはボードを蹴り出した。ひび割れたアスファルトを蹴って、更にボードを加速させる。 季節が夏に近づいてる。 早朝のゆるい空気が身体にまとわりつくから、それを感じるんだ。 2人スケートボードで帰るいつもの道に、壊れかけのガードレールがある。そこから漂う鉄の匂いは嫌だけど、夏になるとその匂いに何故か心を奪われ、胸をギュッとさせられる。 それって、よくわからないけど、ゆるい夏の空気のせいだとカミロは思っている。 スケートボードを爆走させ、到着したのは3階建てのアパート。何とか日が完全に昇る前に帰って来れたようだ。 一階奥が自宅である。ドアの鍵は壊れているがそんなこと、この辺ではお構いなしだ。こんなアパートにわざわざ押しかける強盗や泥棒なんていない。だから、家の鍵がかかってるか、開いているかなんて、この地域ではあまり大きな問題ではない。 まだ家族は寝ているだろう。 カミロは音を立てずにドアを開け、するっと身体を内側に滑り込ませた。 玄関ではスニーカーの紐を緩めずに脱いだ。家の中に土足で入るなと母親に言われているから、家族間のルールで決まったここで、スニーカーを脱ぐ。 紐が切れていないかなと、カミロは、しゃがんでスニーカーを確認した。ついでに少し磨いておくかと、リュックの中からティッシュを探す。 手に触れたのは、ぼったりと重さのあるティッシュのゴミ。さっきまでテオとセックスしていた時のゴミである。廃墟で捨てずに持ち帰っていたようだ。 カミロは声を抑えて笑った。残精が含まれるコンドームは、大量にティッシュに包まれゴミとなっていた。どれだけセックスに夢中になってたんだかと思うと、笑えてしまう。 ティッシュを探し出し、スニーカーの泥を拭いていると、オリバーの咳が聞こえた。 今日も体調は良くないのだろうか。弟であるオリバーは身体が弱い。万年、咳には悩まされ、発熱も頻繁に起こしている。 病院に行き薬をもらえば咳も熱も治るが、 完治はせず、また発熱咳を繰り返していた。治らない病気と、かさむ薬代。仕方がないことだが、家族の間ではこれが悩みになっていた。 どんより暗くて埃っぽい家の匂い。かろうじて動く空調はあるが、テオと過ごす廃墟の方が、まだクリーンに感じてしまうのは何故だろう。 スニーカーの手入れを終わらせ、キッチンに寄ると母親とばったり出くわした。 「おおっ!びっくりした!」 「シッ!まだオリバーもおばあちゃんも寝てるから!」 驚いて声を上げるカミロの口を、母親は押さえ込んだ。そしてヒソヒソ声で叱られる。 「ごめん、母さん…オリバー、また咳出てるけど病院連れて行く?俺、今日休みだから行けるよ」 「本当?お願いできる?カミロ助かる、いつもありがとう」 「うん、いいよ。だけどさ、後1時間くらい寝かせてくれる?あ、母さんは仕事?」 「そう、早朝から仕事入ったんだよね。だからごめん、このままオリバーとおばあちゃんお願いしていい?」 「オッケーわかった。大丈夫だよ。あ、母さんこれ食べるだろ?昨日のやつ。新作出たからもらってきたよ…でも母さんはダブルダブルの方がいいか。あるよ、ほら」 リュックの中から新作のバーガーと母の好きなダブルダブルバーガーを出した。昨日もらったものである。 仕事先のファストフード店で、残りが出ると必ずもらい持ち帰っている。残るものはバーガーやポテトと、日によってまちまちだが、最近はこの残りものが家族の食事の中心となっていた。 「わっ!これ好き!ダブルダブルもらうね。いつもありがとう。助かるわ…カミロ、今帰り?廃墟行ってきた?スケートボードでしょ?」 相変わらずヒソヒソ声の母は、キッチンテーブルに座り、冷たくなったバーガーの包み紙を広げ、カミロに話しかけながら食べ始めた。 「うん、そう。テオがさ、またボード壊したから修理してやるんだ」 母に少しだけ付き合おうと、冷蔵庫から冷えたコーラを取り出し、母の前にカミロも座った。 「知ってる?あの辺一帯さ、工事が入るらしいわよ。オリンピックの開発工事するんだって。来年までには廃墟マンションも全部取り壊して更地にするって聞いた。もうすぐ工事が入るらしいわよ」 「うん、そうなんだってね。テオの仕事もそれ関係だから、忙しくなるって言ってた。ま、いつまでもあのままじゃ、しょうがないでしょ。不良の溜まり場だし」 「そうそう、あんたたち不良の遊び場が、広くなっていくだけだもんね……カミロ、ありがとう。美味しかったわ。さぁ、いってくるか!」 あっという間にバーガーを平らげた母は、丁寧に包み紙をたたみ、ゴミ箱に捨てた。大きなバーガーを食べ、早朝から仕事に行く母をパワフルだと感じる。 「じゃあ…何かあれば連絡して?」 「うん、母さんも無理しないでな。あっ!そうだ、これ。昨日給料出たから、渡しておくよ。足りなくなったら言ってよ?」 昨日は給料日だった。家では母親とカミロだけが仕事をしている。弟のオリバーはまだ小学生、足の悪い祖母はほぼ外出することなく、毎日家にいる日々である。 「…ありがとう。だけどこんなには多いよ。助けてもらってるけど、カミロの分はちゃんと取りなさいよ」 給料の大半を渡したところ、少し戻されてしまった。戻されたお金を受けるかどうか悩んでいると、母に手を握られ「ねっ?」と、仕舞うように促された。 カミロは大人しく受け取り、ジーンズのポケットにねじ込んだ。受け取ってしまってから、やっぱり受け取らなければよかったかもと思い直す。 カミロの心は複雑だ。 母からの愛情と支えを受けることは心強い。だけど本当は、自分が家族の中心になって支えなければいけないと思っている。それに、母にこれ以上苦労をかけたくはない。こんな葛藤するなんて、自分はまだ子供だと感じてしまう。 「行ってきます!」と、小声だが元気に言う母がドアを閉める。その音を背に聞きながら、カミロは弟が眠る部屋へ向かった。 弟のオリバーがまだ寝ているのを確認して、ホッとした。さっきまで咳をしていたが、今は落ち着いているようだ。 少しだけ眠ろうと、カミロはオリバーの横にそっと身体を忍び込ませた。

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