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【17】
バスを降りた瞬間、空気が違った。
スラムの空気は、いつも埃と鉄と油の匂いが喉に絡みついてくる。だけどここは透き通っている。
ダウンタウンは透明だった。
舗装された道は陽を跳ね返し、ガラス張りのビルには空と雲が映っていた。誰もがスマートに歩き、誰にも興味がない顔をしていた。まるで、どこか遠い国の人間のようだった。
「なんか……街が眩しくね?」
「うるせぇよ」
カミロは眉をひそめ、スケートボードを肩に担いだ。テオは周囲をきょろきょろ見回していたが、ふと立ち止まる。
「お、あれじゃん」
視線の先には洒落たスケートボードショップ。ガラス越しに中が見えて、そこにJの姿があった。
ダウンタウンに来たのは、Jに呼ばれたからだ。
「会って話したいことがある」と、Jに言われた。毎日、廃墟で会っているのに、わざわざ場所を変えるってことは、何か理由があるのだろう。
店内で、Jは大人たちに囲まれて笑っていた。廃墟で見る顔と変わらない、あの屈託のない笑顔。
「……やっぱ、お前、裏があるだろ」
「本当、うっさんくせぇ〜」
ショップに入って早々、二人はJの顔を見て口をそろえる。
「なっ、ひどい!そんなこと言うなよ!」
ゲラゲラ笑い合いながら、Jに導かれて店内を歩く。スケートボードはもちろん、アパレルやアートが並び、洒落たギャラリーのようだった。
よく見ると、ボードはもちろん、ポスターやスニーカー、トレーナーまで、すべて廃墟でJが配っていたボードと同じデザインが使われている。
「ここって……ボードショップなのか?」
「そう!最近オープンしたばかり。俺はこの店の立ち上げで、この街に来てたんだ」
Jのショップということか。
関係者らしいスーツ姿の大人もちらほら見える。それでも、子どもから大人まで店内は賑わっていた。
「完成品も売ってるし、屋上にはスケートパークもある。ここでボードを買って、すぐ滑れるんだぜ」
「……へえ……」
テオとカミロが同時に声を漏らす。
店の2階、奥にある「VIP」と書かれた部屋に通された。ソファにドカッと腰を下ろし、都会の空気に疲れたようにため息をつく。
ポスターやアートに描かれているのは、すべてJだった。スケボーで技を決める姿、笑顔で写る写真、直筆のサイン。限定モデルのボードまである。
Jがコーヒーを運んできた。
「……ってことはさ、Jってプロってこと?」
カミロが尋ねる。
「そっ!でも、お前ら知らなかったろ?俺もまだまだだよな~」
あはは、とJは笑う。
テオとカミロは道具やプロには興味がなかったため、スケートボードのプロのことや、Jのことブランドのことも知らなかった。
顔を見合わせ、二人は肩をすくめた。
「じゃあさ……有名なスケーターってことか」
「うん、まぁそんな感じ。オリンピックも狙ってたんだけど……この怪我な」
Jの右足を見て、テオが眉をひそめる。
「オリンピックって、まだ三年後とかじゃん? それまでに治るだろ」
「三年あれば……って思ってるけどな~」
Jは笑って答えるけれど、思っていたよりも重傷なのかもしれない。
少し沈黙が流れた後、Jが真剣な表情で口を開く。
「それでさ、今日呼んだ理由だけど。俺、今後は育成に回ろうと思ってる。それで、テオ、君をスカウトしたい」
「はっ……? はぁっ!?」
突然の言葉に、テオは目を丸くする。
スケートボードはスポーツであり、プロになる道もある。プロになれば、コンテストの賞金やスポンサーの支援で生活ができる。
Jは、自分の成功の話をした。
プロとして大会に出場し、いくつもの賞レースを勝ち抜いたこと。スポンサーが複数ついていること。そして今は、自分のブランドを立ち上げて、店をいくつも展開していること。そんなふうに、自分の力で道を切り拓いていけるんだと。
「テオ、お前には才能がある。ストリートだけで終わらせるのはもったいない。それに、あの廃墟はもうすぐ取り壊されるんだろ?」
プロテストは必要だが、テオなら実力で突破できる。Jはそう断言した。
「俺がいる東側に来て、トレーニングを受けてほしい。生活費、住む場所、全部こっちで用意する。三年後、オリンピックを目指そう」
静かに話し終えたJに、カミロが即座にうなずく。
「テオ、やるべきだ。お前なら狙えるって、俺も思う」
「う、うん。マジか……すげえ話で、あんま頭に入ってこねぇんだけど」
「ははっ、しっかりしろよ。お前がスケボーで頂点狙う話だぞ。俺はここから応援するからさ」
そう言って、カミロがテオの肩を叩いた。
だが、テオは答えず一点を見つめている。
「いや、カミロ。お前も一緒に来てほしい」
「は? 俺は関係ねぇだろ? オリンピックなんか出れるわけないし」
スケートスタイルも、レベルも違う。カミロ自身、そこまでの才能があるとは思っていない。だが、Jは真っ直ぐに言った。
「カミロも必要なんだ。この前俺のボードを調整してくれたとき、乗り心地が全然違った。カミロのボードセッティングは緻密で、スケーターのことをよく見てないと出来ないものだ。それに…俺の怪我にも気づいただろ?お前の腕は確かだぜ」
「……え?」
「選手の勝ち負けを左右するのは、スケーター…ライダーのセンスや技術だけじゃない。ボードのセッティング、メンテナンスも大事だ。カミロ、お前の技術は本物だよ。俺にも、テオにも必要だ。東に来て俺のチームで働いて欲しい」
テオも大きくうなずく。
「ほら、だろ?カミロの指示って、いつも的確なんだよな。それにメンテナンスは信頼してる。俺はお前が必要だよ。そんで、お前はそれをやるべきだな」
一瞬、脳が追いつかなかったが、Jが続けた。
「お前らの東での生活は全てサポートする。給料も出す。仕送りもできる。カミロ、弟のこと…心配しなくていい」
Jは、カミロの家族のことも知っていた。
廃墟に集まっていた仲間たちの暮らしなんて、みんな似たり寄ったりだ。それでもJは、ちゃんと気にかけてくれていた。口にはあまり出さないけれど、どこかで、カミロの背景まで見てくれていた気がする。
「マジか……」
「夢みたいだな……」
カミロとテオはソファに身を預け、天井を見上げる。ソファに沈みながら、しばらく誰も何も言わなかった。
心の中で、何かがゆっくり動き出していた。そして、じわじわと嬉しさが込み上げてきて、二人は顔を見合わせ、笑い出す。やがて三人でゲラゲラと笑い合った。
「一週間後、あっちの空港で待ってる。俺は今夜の便で先に戻る」
Jはそう言って、スマホのアプリをダウンロードするよう伝える。その場で、東へのエアチケットが送られてきた。
「出発24時間前にチェックインするんだぞ。忘れるなよ!何かあったら連絡してくれ。あっちでもスケートトリップしようぜ」
最後までJは、あの笑顔のままだった。
「……やっぱお前、胡散臭かったな」
「でも……すげぇ話だったな。やっぱ、胡散臭ぇけど」
「テオー! カーミーロー! お前らー!」
三人でふざけ合いながら、ガラス張りのボードショップを後にした。
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