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【24】
「あ、母さん、あのさ__」
「カミロ!やっと会えたわね。ちょうどよかった、話があるの」
東に行くことを伝えようとしたその瞬間、母の言葉が重なった。
「今日ね、職場で社員にならないかって話をもらったのよ」
「えっ?ほんと?すごいじゃん、母さん!」
「そうなの。びっくりしちゃった。でも、ずっと頑張ってきたから…嬉しかったわ。願ってもないチャンスよ」
母は、少し誇らしげに笑った。
「社員になれば寮に入れるの。だから、家族で引っ越そうと思ってる。ちょうど、ここのアパートもオリンピックの開発で立ち退きになるみたいだし…」
その言葉を聞いた瞬間、カミロの胸の奥がざわついた。けれど、それを隠すように笑ってみせた。
「すごい話じゃん。よかったね、母さん。すぐ会社に返事したほうがいいよ」
「職場もダウンタウン近くになるの。通勤も楽になるし、環境もきっと良くなると思うの。オリバーにも、ばあちゃんにも…ね」
「最高だよ。医者も言ってたじゃん。オリバーの病気は、空気のいいところに行けば良くなるって」
「そうね…ほんとに、そうね……」
母はその言葉を噛みしめるように繰り返した。けれど、その目はどこか不安げだった。
「それにね、今のうちに立ち退けば、政府から援助も出るの。あんまり大きな額じゃないけど、それでも助かるわ」
開発の波がこの町にも迫っている。母の話す「チャンス」は、きっと今を逃したらもう来ない。
「俺も手伝うよ、母さん。仕事もあって、住むとこもあるなんて、願ってもないよ」
「でも……カミロの仕事が心配なの。引っ越したら通えないでしょう?今の場所、すごく遠くなるもの」
店長には辞めると話はしてある…
「大丈夫。仕事はまた探せばいいし、ダウンタウンならチャンスも多いって聞くし。俺も頑張るからさ」
「本当に……?ああ、よかった。カミロにも相談したくて…でも、どう言えばいいか迷ってたの」
母は安堵したように息をつき、久しぶりに、どこか少女のような笑顔を見せた。母のそんな顔は久しぶりに見る。幼いころの母の面影がよぎる。
「よかったじゃん、母さん。本当に、おめでとう」
「でもね……やっぱり不安なの。もし…うまくいかなかったら?クビになったりしたら、また元の生活に戻っちゃうんじゃないかって。スラムに逆戻りよ」
「未来のことなんて、誰にも分かんないよ。今、いい話がきたなら、乗ったほうがいい」
「そうよね……でも環境が変わるってことは、オリバーにとってどうかしら……。新しい仕事場じゃ、突然休むのも難しいだろうし」
母の声が徐々に弱くなっていく。オリバーの身体を心配してるのは当然だった。環境を変えて、更に悪化したらと考えてしまうのだろう。
母が家族を支えている。その重さは、カミロなんかの比じゃない。
カミロは小さく息を吸い、できるだけ優しい声で言った。
「今より悪くなることなんて、ないよ。俺も一緒に頑張る。そしたら、なんとかなるって」
その言葉に、母の表情がふっとゆるんだ。ほんの一瞬、時が巻き戻ったかのように、優しい笑顔を浮かべる。
「そうよね……ありがとう、カミロ。一緒に頑張ってくれる?」
「もちろんだよ」
この数年、忘れていたような穏やかな空気が二人の間に流れた。
__けれど。
「あ、そうだ。カミロ、さっき何か言いかけてたわよね?」
「ああ、うん。俺の方は……大したことじゃないから、また今度でいいよ」
そう言いながら、心の奥で小さく疼くものがあった。
「行きたい」と思ってしまった。
やりたいことを、初めて自分で「選びたい」と思った。
でも。
「守りたい」ものの前では、それはあまりに小さな感情に思えてしまう。
まだ、日にちはある。
明日になったら、もう一度話をしてみよう。それで、答えを出そうと、カミロは思った。
___その夜、夢を見た。
光の中をボードで走っていた。
どこまでも透き通るような空気、誰にも止められないスピード。こんな場所、現実にはないとわかっている。でも、心は高揚していた。
初めて手に入れた自由の感覚。
風を切る音だけが耳に心地よく響く。
その瞬間、自分がようやく、外の世界に触れたことを知った。
__だけど、ふと振り返る。
後ろには、真っ黒な闇が口を開けていた。
そこに家族の姿があった。
母さんがこちらに手を伸ばしていた。
祖母はうつむき、オリバーは布団に横たわったまま、なにも言わずに見ている。
声をかけられた気がして、立ち止まりかけた。でも怖くなって、また前を向いた。
光の中を走る方が楽だった。自由だった。
霧が出てくる。濃く、重く、息を吸うたびに胸が苦しくなる。視界が狭くなっていく。それでも進もうとする。後ろを振り返る勇気が、どうしても出ない。
目が覚めた。
天井を見つめながら、呼吸を整える。
汗が額に滲んでいた。
夢だった。
でも、感じた怖さも、逃げたい気持ちも、本物だった。
あの夢の中の自分は、逃げていた。
後ろにいたのは、たしかに母さんたちだった。母さんの仕事はこれからだ。まだ当分安定しない。祖母の足も悪い。オリバーは、最近やっと咳が治まってきている。
そんな中で、自分だけが光の中に飛び出していいのか?
夢の中の自由は、家族を犠牲にして手に入れたものだった。それが、現実でも同じだったらと思うと、胸が苦しくなる。
隣ではオリバーが静かに寝息を立てている。その呼吸が穏やかなだけで、少し救われた気がした。
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