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「あ、母さん、あのさ__」 「カミロ!やっと会えたわね。ちょうどよかった、話があるの」 東に行くことを伝えようとしたその瞬間、母の言葉が重なった。 「今日ね、職場で社員にならないかって話をもらったのよ」 「えっ?ほんと?すごいじゃん、母さん!」 「そうなの。びっくりしちゃった。でも、ずっと頑張ってきたから…嬉しかったわ。願ってもないチャンスよ」 母は、少し誇らしげに笑った。 「社員になれば寮に入れるの。だから、家族で引っ越そうと思ってる。ちょうど、ここのアパートもオリンピックの開発で立ち退きになるみたいだし…」 その言葉を聞いた瞬間、カミロの胸の奥がざわついた。けれど、それを隠すように笑ってみせた。 「すごい話じゃん。よかったね、母さん。すぐ会社に返事したほうがいいよ」 「職場もダウンタウン近くになるの。通勤も楽になるし、環境もきっと良くなると思うの。オリバーにも、ばあちゃんにも…ね」 「最高だよ。医者も言ってたじゃん。オリバーの病気は、空気のいいところに行けば良くなるって」 「そうね…ほんとに、そうね……」 母はその言葉を噛みしめるように繰り返した。けれど、その目はどこか不安げだった。 「それにね、今のうちに立ち退けば、政府から援助も出るの。あんまり大きな額じゃないけど、それでも助かるわ」 開発の波がこの町にも迫っている。母の話す「チャンス」は、きっと今を逃したらもう来ない。 「俺も手伝うよ、母さん。仕事もあって、住むとこもあるなんて、願ってもないよ」 「でも……カミロの仕事が心配なの。引っ越したら通えないでしょう?今の場所、すごく遠くなるもの」 店長には辞めると話はしてある… 「大丈夫。仕事はまた探せばいいし、ダウンタウンならチャンスも多いって聞くし。俺も頑張るからさ」 「本当に……?ああ、よかった。カミロにも相談したくて…でも、どう言えばいいか迷ってたの」 母は安堵したように息をつき、久しぶりに、どこか少女のような笑顔を見せた。母のそんな顔は久しぶりに見る。幼いころの母の面影がよぎる。 「よかったじゃん、母さん。本当に、おめでとう」 「でもね……やっぱり不安なの。もし…うまくいかなかったら?クビになったりしたら、また元の生活に戻っちゃうんじゃないかって。スラムに逆戻りよ」 「未来のことなんて、誰にも分かんないよ。今、いい話がきたなら、乗ったほうがいい」 「そうよね……でも環境が変わるってことは、オリバーにとってどうかしら……。新しい仕事場じゃ、突然休むのも難しいだろうし」 母の声が徐々に弱くなっていく。オリバーの身体を心配してるのは当然だった。環境を変えて、更に悪化したらと考えてしまうのだろう。 母が家族を支えている。その重さは、カミロなんかの比じゃない。 カミロは小さく息を吸い、できるだけ優しい声で言った。 「今より悪くなることなんて、ないよ。俺も一緒に頑張る。そしたら、なんとかなるって」 その言葉に、母の表情がふっとゆるんだ。ほんの一瞬、時が巻き戻ったかのように、優しい笑顔を浮かべる。 「そうよね……ありがとう、カミロ。一緒に頑張ってくれる?」 「もちろんだよ」 この数年、忘れていたような穏やかな空気が二人の間に流れた。 __けれど。 「あ、そうだ。カミロ、さっき何か言いかけてたわよね?」 「ああ、うん。俺の方は……大したことじゃないから、また今度でいいよ」 そう言いながら、心の奥で小さく疼くものがあった。 「行きたい」と思ってしまった。 やりたいことを、初めて自分で「選びたい」と思った。 でも。 「守りたい」ものの前では、それはあまりに小さな感情に思えてしまう。 まだ、日にちはある。 明日になったら、もう一度話をしてみよう。それで、答えを出そうと、カミロは思った。 ___その夜、夢を見た。 光の中をボードで走っていた。 どこまでも透き通るような空気、誰にも止められないスピード。こんな場所、現実にはないとわかっている。でも、心は高揚していた。 初めて手に入れた自由の感覚。 風を切る音だけが耳に心地よく響く。 その瞬間、自分がようやく、外の世界に触れたことを知った。 __だけど、ふと振り返る。 後ろには、真っ黒な闇が口を開けていた。 そこに家族の姿があった。 母さんがこちらに手を伸ばしていた。 祖母はうつむき、オリバーは布団に横たわったまま、なにも言わずに見ている。 声をかけられた気がして、立ち止まりかけた。でも怖くなって、また前を向いた。 光の中を走る方が楽だった。自由だった。 霧が出てくる。濃く、重く、息を吸うたびに胸が苦しくなる。視界が狭くなっていく。それでも進もうとする。後ろを振り返る勇気が、どうしても出ない。 目が覚めた。 天井を見つめながら、呼吸を整える。 汗が額に滲んでいた。 夢だった。 でも、感じた怖さも、逃げたい気持ちも、本物だった。 あの夢の中の自分は、逃げていた。 後ろにいたのは、たしかに母さんたちだった。母さんの仕事はこれからだ。まだ当分安定しない。祖母の足も悪い。オリバーは、最近やっと咳が治まってきている。 そんな中で、自分だけが光の中に飛び出していいのか? 夢の中の自由は、家族を犠牲にして手に入れたものだった。それが、現実でも同じだったらと思うと、胸が苦しくなる。 隣ではオリバーが静かに寝息を立てている。その呼吸が穏やかなだけで、少し救われた気がした。

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