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【26】
家族全員が、明るい顔をしていた。
来週早々に、引っ越すことが決まった。
久しぶりに、家族そろっての夕食だった。
いつもならピザやバーガーで済ませる食卓に、今夜は母が時間をかけて手料理を並べてくれている。
スープの湯気があたたかく、部屋の空気がゆっくりと満ちていく。
オリバーは夢中でごはんを食べている。
あまりに嬉しそうに笑うから、また熱を出すんじゃないかと不安になるくらいだ。
「お前さ、ちょっとは落ち着けって」
「やだ!」
思わず吹き出しそうになる。いつの間にか、こんな風に喋るようになったんだな、と思う。
「あ、そうだ。テオがボードくれたぞ。お前が使えるように、セッティングも変えてあるから」
「ほんと!?じゃあさ、夏休みになったら……連れて行ってくれる?」
カミロは少し間を置いて、笑う。
「……ああ、そうだったな。でも今は、やれる場所がなくてさ」
「えーっ!約束したじゃん。なんで?どこか他にないの?」
「……探しておくよ。ストリートのやつら、また新しい場所見つけるから。すぐにそこがたまり場になるさ」
「やったー!俺、兄ちゃんみたくなりたい!」
俺と自分ことを呼ぶ。
いつの間にか、オリバーは「ぼく」じゃなくなっていた。自分のことで頭がいっぱいだったあいだに、弟は、ちゃんと成長していた。
母の会社が手配した新居には、最低限の荷物だけ持っていけばいい。初めての引っ越しに浮かれているオリバー。少し不安そうな祖母。でも、ここを出られることは、やっぱり嬉しいのだろう。
母は元気に、いつも通り家族の真ん中にいる。そして自分もその隣にいる。
「ダウンタウンの方って、霧は出ないのかな」
「……あるだろ。たぶん、あるよ」
窓を開けると、今日も湿気と、埃の匂いが鼻をつく。どこに行っても、この街のにおいは、しばらく忘れられそうにない。
夜眠れず寝返りを打つ。
何度も繰り返す中、ピコンとスマホに通知が届く。なかなか寝られないでいるから、すぐにメッセージを確認した。
『チェックインしたか?』
テオからだ。
『ああ、ちゃんとチェックインできた』
と返す。
画面の上で飛行機の手続きが完了する。
たった数回のタップで、東へ行く手配が整ってしまったことが、どこか現実味を欠いていて、少し怖かった。
『朝一番のバスだからな。番号はB355だ。間違えるなよ』
『お前こそ、大丈夫かよ。朝早いから、もう寝ろよ』
スマホを伏せたまま、天井を見つめる。
部屋は静かで、時計の針の音だけがゆっくりと響いている。眠ろうとしても、まぶたが下りてこない。何度も目を閉じては、すぐに開いてしまう。
……本当に、行くのか?
心の中で、自分に問いかける。
あと数時間もすれば、この家を出て、街を抜けて、バスに乗って、見たこともない東の国に着く。テオと一緒に、新しい日々が始まる。
でも。
この家の匂い。
オリバーの寝息。
母の笑い声。
祖母が落とした小さな咳払い。
全部が、耳の奥に染みついて離れない。
目を閉じれば、そればかりが浮かんでくる。
自由って、なんだろう。
夢を追いかけること?
この場所から抜け出すこと?
それとも、大切なものを、守り続けること?
布団の中で身体を丸める。
答えは出ない。
どちらかを選べば、どちらかを諦めるしかない。それが現実だと分かっているのに、何度も同じ問いに戻ってしまう。
結局、カミロは一睡もできなかった。
空がほんの少し明るくなる頃、鳥の声がかすかに聞こえ始めた。
朝が来る。
時間が進む。
選ばなければならない瞬間が、静かに近づいてくる。
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