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家の中は静まり返っていた。 母も、祖母も、オリバーも深く眠っている。時計の針が、ひとつずつ夜を削る音だけが、遠くで響いていた。 カミロは音を立てないように、そっと玄関へ向かう。足元に置かれたスニーカーが、薄明かりの中に沈んでいた。 しゃがみ込み、手を伸ばす。 白いゴムの縁に、うっすらと泥がついていた。ポケットからティッシュを取り出し、そっと拭う。 その汚れは、テオと歩いた瓦礫の中でついたものだった。気づくと、なかなか拭き終われなかった。 「……こんなとこ、気にしてどうすんだよ」 小さくつぶやき、靴ひもを解く。左足を持ち上げて、そっと足を入れかけた。 「兄ちゃん、どこ行くの?」 背後から、眠たそうな声がした。カミロは心臓を跳ねさせながら振り返る。オリバーが、パジャマのまま廊下に立っていた。 その一言が、部屋の静けさを断ち切った。 一瞬で、すべてが止まったようだった。 言葉が出ないまま、カミロの動きが止まる。靴の中に入れかけた足も、持っていた靴ひもも、そのまま。 何かが胸の奥でほどけて、やっと息が吸えた気がした。 その息を静かに吐き出すように、ようやく、声を出せた。 「…どうした? お腹すいたか?」 「うん。ちょっとだけ」 ぽつりと落ちたいつもの声は、靴ひもが手の中でほどける音と重なる。 カミロは、そっと足を靴から抜いた。 踏み出そうとしていたその一歩を、自分の意志で、たしかに引き返した瞬間だった。 ゆっくりと立ち上がり、オリバーのくしゃっとした髪に手をのせる。 「じゃあ、何か食うか。ほら、キッチン行こうぜ」 2人でゆっくりとキッチンへ向かう。カミロは冷蔵庫を開け、昨夜の残りのウインナーと卵を取り出した。 コンロに火をつけ、油をひく。じゅう、と焼ける音が、少しずつ朝の訪れを知らせるように鳴り始める。いつもと変わらない、けれど確かな朝だ。 オリバーは椅子に座りながら「ねえ、ケチャップかけていい?」と聞いた。カミロは笑って、「好きなだけな」と返す。 フライパンから立ちのぼる香ばしい匂いと、冷えた床に伝わる朝の気配。窓の向こうが、ほんのりと青く滲み始めている。 埃っぽく湿ったこの街の空気さえ、今朝は少しだけ優しく感じられた。 スニーカーを履かなかった足の裏が、床の冷たさをしっかりと受け止めている。踏み出さなかったその一歩が、不思議と今は、軽かった。 ケチャップの甘い匂いが、静かな台所に漂う。オリバーは「うまい」と笑って、カミロもつられて笑った。 バスは、もう通り過ぎたころだろう。 カミロは、ここにいる。 選んだのは、この朝。 この時間、この場所。 そして、この生き方。 自由って、なんだと思う? 上手く言い表せない。 けれど、自分で選んだこと。 それがたぶん、自由なんだと思う。 朝は、もう始まっている。 世界は、昨日とは少しだけ違う色をしている。 熱を含んだ空気が、じわりと動き始めていた。霧はまだ残っているけれど、それも夏になれば消えていくだろう。 暑い夏が、もうすぐそこまで来ている。 end

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