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【27】
家の中は静まり返っていた。
母も、祖母も、オリバーも深く眠っている。時計の針が、ひとつずつ夜を削る音だけが、遠くで響いていた。
カミロは音を立てないように、そっと玄関へ向かう。足元に置かれたスニーカーが、薄明かりの中に沈んでいた。
しゃがみ込み、手を伸ばす。
白いゴムの縁に、うっすらと泥がついていた。ポケットからティッシュを取り出し、そっと拭う。
その汚れは、テオと歩いた瓦礫の中でついたものだった。気づくと、なかなか拭き終われなかった。
「……こんなとこ、気にしてどうすんだよ」
小さくつぶやき、靴ひもを解く。左足を持ち上げて、そっと足を入れかけた。
「兄ちゃん、どこ行くの?」
背後から、眠たそうな声がした。カミロは心臓を跳ねさせながら振り返る。オリバーが、パジャマのまま廊下に立っていた。
その一言が、部屋の静けさを断ち切った。
一瞬で、すべてが止まったようだった。
言葉が出ないまま、カミロの動きが止まる。靴の中に入れかけた足も、持っていた靴ひもも、そのまま。
何かが胸の奥でほどけて、やっと息が吸えた気がした。
その息を静かに吐き出すように、ようやく、声を出せた。
「…どうした? お腹すいたか?」
「うん。ちょっとだけ」
ぽつりと落ちたいつもの声は、靴ひもが手の中でほどける音と重なる。
カミロは、そっと足を靴から抜いた。
踏み出そうとしていたその一歩を、自分の意志で、たしかに引き返した瞬間だった。
ゆっくりと立ち上がり、オリバーのくしゃっとした髪に手をのせる。
「じゃあ、何か食うか。ほら、キッチン行こうぜ」
2人でゆっくりとキッチンへ向かう。カミロは冷蔵庫を開け、昨夜の残りのウインナーと卵を取り出した。
コンロに火をつけ、油をひく。じゅう、と焼ける音が、少しずつ朝の訪れを知らせるように鳴り始める。いつもと変わらない、けれど確かな朝だ。
オリバーは椅子に座りながら「ねえ、ケチャップかけていい?」と聞いた。カミロは笑って、「好きなだけな」と返す。
フライパンから立ちのぼる香ばしい匂いと、冷えた床に伝わる朝の気配。窓の向こうが、ほんのりと青く滲み始めている。
埃っぽく湿ったこの街の空気さえ、今朝は少しだけ優しく感じられた。
スニーカーを履かなかった足の裏が、床の冷たさをしっかりと受け止めている。踏み出さなかったその一歩が、不思議と今は、軽かった。
ケチャップの甘い匂いが、静かな台所に漂う。オリバーは「うまい」と笑って、カミロもつられて笑った。
バスは、もう通り過ぎたころだろう。
カミロは、ここにいる。
選んだのは、この朝。
この時間、この場所。
そして、この生き方。
自由って、なんだと思う?
上手く言い表せない。
けれど、自分で選んだこと。
それがたぶん、自由なんだと思う。
朝は、もう始まっている。
世界は、昨日とは少しだけ違う色をしている。
熱を含んだ空気が、じわりと動き始めていた。霧はまだ残っているけれど、それも夏になれば消えていくだろう。
暑い夏が、もうすぐそこまで来ている。
end
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