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第8話 売り専のスカウト
「ねえお兄さん、すごく綺麗だね。何の仕事してるの?」
黒いスーツを着たいかにもな強面の男が軽薄そうに声をかけてきた。桜はたびたび駅前のスカウトに捕まることが多かった。その時もいつものように無視をして素通りしようとしたとき、男が桜の腕を引いた。まさか触れられるとは思ってもいなくて、抵抗しようと踏ん張るも男の力に敵わない。上から顔をのぞき込まれて、付けていたマスクを無遠慮に外される。
「おおー上玉だぁ。こりゃたまげた」
男はブルーのくすみのかかったサングラスをひょいと外してから、桜のことを頭のてっぺんから爪先まで値踏みするように眺めてきた。まるでショーケースの中で選ばれる犬のような気持ちだった。
「離してください……」
仕事で疲れきっていた帰りというのもあって、桜の声は小さく掠れていた。腹の奥が痛いほど捻れる。昼飯を抜いているから思うように力が出ないのだ。
「お兄さん。金に困ってる顔してんなー。ねえ、どう? いい仕事紹介するからさ。あ、ヤクとかじゃねえから安心して。俺が紹介するのは合法なお仕事だから」
まずい、と桜は思った。まさか金がないのがバレるくらい顔に出ていたのかと。ヤクというのは薬物絡みのことだろう。男の放った「合法なお仕事」という言葉に誘惑されている自分がいた。今のこの苦しい状況を変えられるような仕事があるのだろうか。あったとしても自分1人で探すことは困難だろう。桜の頭の中で天使と悪魔の声が囁き合う。
「お兄さん男もイけるクチ?」
「……男、ですか」
「そ。売り専のボーイ探しててさ。派遣型のサービスで本社が鶯谷にあるんだけど、上野エリアで1番人気の店でさ。お兄さんが男に奉仕できんなら、きっと半年くらいでナンバー入りできる素質ありそうだし、どうだ? 悪くねえ話だろ」
ごく、と桜は唾を飲み込む。男もイけるクチかどうかは、たぶんイけると思った。学生の頃から男にも言い寄られていた経験があったからだ。
「仕事の内容は……」
おそるおそるパンドラの匣を開くみたいにして、男に聞いてみる。
「簡単な話、客は男でそいつらに性的なサービスっつうのかな。してやる仕事。女でいうデリヘルみたいなもん。俺が紹介する店は客とボーイ共に挿入禁止だからモノ咥えたりバイブ使って責めてやればOKってワケ。どう? 気になってきた?」
「……1人の客に対していくらくらい稼げますか」
男の饒舌な説明を聞きながら桜は気づけばそう口にしていた。男が口端を上げる。
「1人1時間のコースなら1万5000円。一晩で5人の相手したら1日7万5000円は稼げる。あと俺からの紹介なら祝い金として即手渡し20万渡せる」
一晩で5人の客を相手したら1日7万5000円稼げて、この男からの紹介なら祝い金20万を即手渡しでもらえる……。
桜の心はもう傾いていた。生活は貧しく1日生きるのもやっとの思いの桜にとって、涎が出るくらい甘い誘いだった。
もうここまで来たら夜の仕事をしないと無理か、と理性によってぴんと張られていた最後の糸がぷつりと切れた。
「わかりました。その仕事紹介してください」
腹を決めた桜を見て男が喜びの声を上げる。
「いーねえお兄さん。そうこなくっちゃ。したら、連絡先交換しよ。一応面接もあるけど、お兄さんなら間違いなく受かるね。店の店長に面接日聞いたら連絡するわ。ホームページ見とけばなんとなく仕事内容とかわかるだろうから教えとくな。鶯谷にある『美少年倶楽部』っつう店だ。笑えるよな。爺の趣味丸出しの名前だよな。じゃ、また連絡するから。はいこれ祝い金の20万な」
捲し立てるような早口の男の話をなんとか聞き終えると、男は桜の前に札束を見せてきた。男が20枚きちんとその場で数えてくれている。それを受け取ってしまったら今まで桜が築き上げてきたもの全てが崩れ去るような予感がした。けれどもう後戻りはできない。腹を括らなければ生きていけない。この世界はそういうふうにできている。半ば夢見心地のまま男から札束を受け取った。
桜はその夜、牛丼を食べてから帰宅した。大盛りにした。卵をトッピングした。割り箸を持つ手が震えた。1口米と肉をかきこめば舌が驚いて口の中で跳ねた。
「……うま」
涙が出るくらい美味しかった。幸い店の中の客は桜だけだったので嗚咽混じりに牛丼を食べても何も言われなかった。牛肉を食べるのは半年ぶりだった。
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