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第29話 8月。真柴睦月との出逢い

 その日はなんとか無事に4時の枠まで仕事を終えて待機所に戻ると、知らず知らずのうちに疲労が溜まっていたのか待機所のソファに身体が沈んだ。 「……疲れた」  桜以外のキャストは皆出払っているのか、待機所には珍しく自分しかいなかった。ペットボトルの水を口に含み目を伏せる。この時間だけでも1人にしてほしかった。事務所では電話の音がぱったり止み、受付は今日の営業じまいをしている。  そんな時、一本の電話が鳴った。  事務所が急に騒がしくなった。桜は気だるい体をなんとか持ち上げて事務所の様子を見にいく。 「……少々お待ちください」  いったん保留にして電話を受けた受付の黒服の男がオーナーと何やら話している。 「桜くんに聞いてみよう」  と、そんなフレーズが聞こえた気がした。気になった桜は事務所へ顔を出す。 「オーナー。何かあったんですか?」 「ああ桜くん。実は、新規のお客さんが桜くんを指名していてね……なんだかすごく必死なのよ。今日中じゃなきゃダメだって……」  新規の指名客か、と桜は心の帯を締める。 「……いいですよ。いけます」 「本当? 無理はしないでね」 「はい」  そのまま荷物を取りに待機所へ戻りソファに腰かけた。フーっとため息にも似た深呼吸をして心を入れ替える。 「桜くん、下に車着きました。色は黒です」 「わかりました」  階段を下りる足取りがおぼつかない。足もとのタイルはポロポロと剥がれていき、桜の靴の裏に擦れていく。桜は固いコンクリートでできた壁に手をつきながら、慎重に階段をおりていく。  完全に体力不足だ……。  ナンバーワンになってからというもの、ホームページを見た新規のお客様からの指名が後をたたない。今日も5件のうち2件は新規の指名客だった。気を遣いすぎたのか頭がぼんやりとする。おそらく脳疲労だ。車に乗り込むと桜は後部座席のシートに体を横にした。 「これが終われば寝れる……」  そう呟くと桜は目を閉じた。 「桜くん! 桜くん!」  誰かに名前を呼ばれている気がする。 (でも、まだ寝かせて……) 「桜くんっ!」  グラグラと肩をゆさぶられてはっと飛び起きる。 「えっ、なに……?」 「よかった……気を失ってるのかと思ったよ」  ドライバーが心配して声をかけてくれたようだ。 「あっ、すみません……寝ちゃってました?」 「うとうとはしてたよ。でも、まだホテルに着いたばかりだから大丈夫だよ」  急いで服を整えると荷物を持ってホテルの中に飛び入った。いつもより整わない呼吸にイラつくが、仕方ない。自業自得だ。  部屋のドアをノックする。  しかし、しばらく待っても返事はない。もう一度強くドアをノックすると、部屋の中から物音が聞こえてきた。 「待たせて悪い」 「……っ美少年倶楽部の桜です。今日はよろしくお願いします」 (うわ。すげえ背も高くて美人)  男に美人という表現は、少し違和感を感じるかもしれない。しかし、ドアを開けた男は文字通りの美人。185センチの桜よりも少し背の高い男。おそらく190センチ近くあるのではないだろうか。桜は自分より背の高い男と初めて出会った。加えて、シャープな体型と薄い唇、冷めた目つき。醸し出す雰囲気は音楽で例えるならばクラシックのような洗練された印象を受けた。今はスーツを着ているようだったが、着物がよく似合いそうだと思った。大衆演劇の女形の役者のような美貌を持つ男だった。

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