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第37話 クソ客の営業妨害 R18
深夜、というよりもう朝方に近い。薄く藍色のグラデーションを空に色付ける夜明けが目の前にあった。大気はしん、と澄みきって鶯谷は静かに息を潜めている。内包する欲情の色を隠しながら。朝になれば昨夜の情事のことは忘れ、ラブホテルに泊まった客たちはまたいつものように日常を送り始める。まるで愛欲の始発駅であり終着駅のような場所。それがかの有名な風俗街である鶯谷だった。
電柱の上にとまっているたくさんの雀が朝の挨拶をしあっていて、それを見ると桜は少しだけシビアな現実から逃れられそうな気がした。
ホテルに横付けされた車から降りると、桜は時間稼ぎをするかのようにゆっくりゆっくりと一歩を踏み出した。スタッフが渡してきた用紙に書かれている部屋番号を見て、ふうと重く息を吐く。身体が鉛のように重く、思うように身体が動かせない。連日の仕事の疲れがたまっているのも要因のひとつだろうが、これから指名してきた客の対応をするのがひどく億劫なのが一番の理由だった。部屋の前に立つと、わずかに足が震えているのを嫌でも自覚してしまう。
このドアの向こうは闇だ。
世界で一番嫌いな瞬間。
この時ばかりは本当に最低の気分になる。
早く終わらせてしまおうと、桜は今日も心を殺して作った笑顔で部屋に入る。営業スマイルを浮かべ、営業キャラクターとして純粋で清楚な美少年倶楽部のナンバーワンの桜というボーイの役を演じるだけだ。
「清水様。お待たせしました。桜です」
清水という男は、清潔感のない中年男性だ。聞けば、独身らしい。それもそうかと聞いた時に納得してしまったほどだ。
無精髭の目立つ取り柄のない顔。目はラクダのように落ち窪み瞳には光がない。黒くて四角いフレームのメガネを脂ぎった指でいつも弄っている。レンズの部分は白くもやがかかり汚れているが、気にする素振りは見せない。風呂キャンをしてるのかと疑うほどの体臭のキツさに鼻がもげそうになる。息をするのも躊躇われるが、仕事なのだから仕方ないと桜は割り切る。鼻をつまみたい衝動を押さえて部屋に足を踏み入れた。
(そうだよな。こんなおじさん誰が相手するってんだ。おおかた日常で出会いがないからこうして売り専を利用してきてるだけだろ)
清水は血を流すplayが好みらしく、桜にもそのplayをしつこく強要しようとしてくる。桜は自身の売り専の桜としてのキャラクターの性格を利用して、やんわりと断ってきた。
『お店でそういうplayは禁止されてるからごめんね。僕はそういうplayは苦手だから甘々playしようよ』
と清水を説得してきた。清水は桜にそう言われると不機嫌になって紙タバコを吸って自身の要望が通らなかったことに不満げだった。しかし、2本も吸い終わればこの時間もplay時間として金が発生していることに気づき、桜の提案した甘々playをさせてくるのだった。顔と身体が資本の仕事をしている桜は、もちろん血を流すplayなど不可能だ。桜としても痛いのは嫌だ。絶対に避けたい。売り物の身体に傷をつけられることは何としてでも防ぎたかった。
毎回、きちんと説明しているのに清水は聞く耳を持たない日もある。そういう日は決まって目がぎょろぎょろとして魚のように口をパクパクさせて独り言をぶつぶつ呟いている。脂のたぎっている顔面を、なぜかいつも汗ぐっしょりな小さなハンカチで拭きまくっている様を見ると吐きそうになる。
いつギザギザした長い爪で引っかかれるかわからない。指には川豆もたくさん出来ている。衛生上よろしくなさそうな手で身体に触れられると、桜の全身に鳥肌が立つのだ。鳥肌について不審に思われないように桜はいつもこう言っている。
『僕、敏感だから清水さんの触り方で鳥肌立っちゃった』
かろうじて頬をぴくつかせて笑うが、不衛生な手で色んなところをまさぐられる。そんな恐怖を抱きながら桜は今日も奉仕する。
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