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第44話

「出勤したのは桜の意思なのか?」  憂うような瞳の色。哀愁の漂う瞳の中に吸い込まれそうになる。その藍色の瞳の中に溺れてしまえたらどんなに楽だろう。この人の瞳の中にいるうちは安全に違いないと桜の本能が訴えてくる。手を伸ばせば簡単にその手をとってもらえそうな気がして浮ついた自分の心に苦笑して戒めるように笑う。 「はい。オーナーに僕がどうしても働きたいって言ったから……」  すると、それを聞いた真柴は突然桜のことをベッドに押し倒した。 「痛っ」  傷口がトレーナーに擦れてじくじく痛み出す。 「ま、真柴さん!?」  両手首をシーツに縫い付けられ桜は足をバタバタと動かし暴れる。非力な桜では真柴の力にかなわずそのまま足を無理やり開かせられ、その間に膝を入れられる。  桜は必死になって暴れるが、真柴は決して動かない。  桜は真柴の強固な囲いから抜け出そうと死にものぐるいで暴れ続ける。 「……この程度の力か」  真柴は呆れた声で静かにそう呟くと、桜の両手首を離した。  桜がはあはあと肩で息をしていると、真柴は桜のはだけたトレーナーを整えはじめる。胸からお腹まですっぽりとトレーナーに覆われた。 「な、何でっ……?」  桜は困惑した。熱く抱擁してくれたかと思えば、痛いくらいに組み伏せられた。状況が飲み込めない。表情に色が浮かばない真柴の考えていることがわからなかった。  先程まで自分を襲おうとした男が、ひどく悲しそうな顔をしていたからだ。  真柴は桜を抱き起こすとそのまま両腕をまわして抱きしめた。まるで大きなぬいぐるみを抱っこするように、よしよしと桜の手首を指先でなぞる。 「俺がクソ客だったらどうするつもりだ。こんな簡単に組み伏せられてしまうというのに」  耳元で声が聞こえる。真柴の肩に桜は顔を埋めているから顔は見えないけど、声音はどことなく優しい。  桜は何が何だかわからなくて、じっとその声に耳を澄ませる。  真柴は、とんとんと一定のリズムで桜の背中をとんとんし始めた。 「桜にはもう怖い思いはして欲しくない。安心していい。今は俺がいる」  真柴の腕の中で震えていると強く抱き締められた。全てを肯定してくれているような言葉に他人からは見えない自分の心が泣いた。  朝の光が窓から差し込む。それはやがて真柴の頬を一筋の光となって照らした。まるでそれは暗黒の時代に差し込む神様の慈悲深い導きのように感じられた。 「真柴さん……」  と、腕の中で桜が呟く。 「もう大丈夫です」  そう言って顔を見上げた。 「いや、まだだ」  そう言うと真柴は桜を抱きしめる手に力を込めた。  あたたかい。  桜は体だけでなく心までもがあたたかくなっていくのを感じた。  この人は、どうしてこうも簡単に俺を揺さぶるのだろう。氷みたいに熱を持たない寡黙な人が俺をあやしてくれている。まるで自分が赤ん坊になったような感覚だ。この構図が初めてで夢のようで、ずっと自分が喉から手が出るくらい欲しがっていたもののようでそれを今確かに手に入れることができて身体の力がほっと抜けていった。 「桜。俺のために売り専をやめてくれないか」  聞き間違いに違いない。  そもそも自分と真柴は金銭を介したたった一夜の関係。  何かの気の迷いだろう。俺みたいなのをそんなふうに扱ってくれる人間は今まで一度もいなかった。

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