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第47話
「でも、僕が辞めたら店が困ります。オーナーだって説得できるかどうか……」
唾液が喉の奥に張り付いて上手く息ができない。
「大丈夫だ。お金のことは心配しなくていい。店側の納得する金額を用意する。それに、桜にも対価を払う」
「……僕への対価、ですか?」
身体ごと射抜かれるような力強い眼光に桜の瞳は瞬きさえ忘れて見入る。この人はもう覚悟を決めたようだ。凛とした佇まい、有無を言わさぬ鋭い視線。桜は自分が覚悟を決めれば、物事は今までになく理想通りに運ぶと確信した。確信したからこそ迷いが生じた。
自分を雇ってくれたオーナーや、仲良くしてくれるミケ先輩のこと。ひいらぎ荘のおもち、姫くん、ユキヤくん。
1度手にしたものを躊躇いなく手放せるほど桜は大人ではなかった。
けれど、もし叶うならば。売り専ではない仕事をしてみたいと思うのも心の底からの願望だった。今回の清水の1件でやはりこの仕事はハイリスク・ハイリターンだと学んだ。自分の心や身体がぼろぼろになっても、全て自己責任の世界。
何よりも桜が苦しかったのは、売り専というレッテルを貼られる時の胸のつかえだった。
瞬のためとは言え、全身に鞭を振るって馬車馬のように働き、帰宅すると泥のように眠りにつく。悲しいこと、嫌なことを忘れたいから。寝ている時だけが、世界は桜を唯一自由にした。寝ている時だけが幸せだった。
「桜はどうしたい?」
「……僕は」
選択の余地を残しておいてくれるこの人の優しさが好きだ。言葉だけじゃなくて行動で示してくれるから。桜の道を照らすほうき星のような小さな光。けれど爛々と光り輝く。夜の裂け目に名前なんかいらない。そう思わせてくれるほど、圧倒的な光──。それが真柴睦月という男だった。
「もっと、自由に生きてみたい……」
「ああ」
ぽつりと桜の口元から溢れたのは今までずっと心に秘めてきた願いだった。真柴は穏やかな表情で桜を見つめる。
大丈夫。言ってみろ。
そう背中をさすられているような感覚に、身体の奥がじんわりと熱を帯びていく。
「もっと、色んな食べ物っ……食べてみたい」
「ああ。なんでも食わせてやる」
瞳から迸る熱いものを、桜は幾度となく耐えてきたがそれももう終わりでいいんだと。この人の前でなら本当の自分をさらけ出してもいいんだと、初めて人に受け入れられた気がした。
「……海とか山に行ってみたいっ。俺、まだ行ったことないから」
「ああ。いくらでも連れていく」
桜の仮面が剥がれた瞬間だった。売り専としての桜は、自分のことを「僕」と呼びいい子ぶる癖を付けてきた。けどそれももうおしまいでいいんだ。はっとして気づいたら、自分の願望をいくつも吐き出していた。子供みたいに泣き喚いて、真柴は面倒くさくないだろうか?
「何か他にしたいことはないか?」
鼻をグズグズ言わせていると、真柴の手のひらに頭を包まれた。すっぽりと収まる小さめの桜の後頭部に真柴は幾分か驚いたように目を見張った。
「いろいろ俺が今までしたことないこと全部してみたい」
泣き腫らした目のまま桜は真柴に縋るように乞う。
「ああ。全部俺が叶えてやる」
自信に満ちた表情。逞しい腕に包まれたら最後、この温もりからは逃げられない。
「真柴、さん」
「だから桜。お前を買うよ」
「……はい」
窓の外。高く上り始めた朝日が桜の頬を照らした。それは新たな桜の未来を照らす篝火のようだと真柴には見えた。
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