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第62話 日常の優しさ
がちゃ、という玄関の鍵が開く音。こんなに心待ちにしたことはなかった。
桜は早足でリビングのソファから廊下へ向かう。10月の秋の季節に真柴は額から大粒の汗を流していた。今年は残暑が厳しいようだ。10月なのに稀に真夏日の日もある。桜はそれを見てひんやりフェイスタオルシートを差し出す。
「おかえり。外、暑かったろ」
真柴はわずかに目を見開くと「ありがとう」と口にして、顔をシートで拭いていた。その間に桜は真柴が左手に提げている袋に気づいてそれを受け取ろうとする。
「今日、30度超えたらしいじゃん。ニュースでやってた」
会話の続きのまま袋を受け取るつもりだったのに、真柴はいっこうに手を袋から話してくれない。
俺に手渡ししたくないくらい大切な仕事道具とか?
そう思ったら安易に触るのはまずいと思って、静かに両手を引っ込めた。真柴はふーっと深いため息をついてから
「暑すぎるから先にシャワーを浴びる。夕食はもう終えたか?」
「ううん。まだお腹すいてなかったから用意して待ってた」
「そうか。夕飯楽しみだ。20分くらいで上がる」
相当暑さに参っているのか真柴の顔がいつもよりふやけて見える。常日頃無表情を保つのももしかしたら苦労しているのかもしれない。そう思ったらなんだかかわいく思えてきてならない。
「いいよ。ゆっくりお風呂浸かって。俺は見たいドラマあるから」
「……すまないな。その言葉に甘えよう」
少し疲労が滲む表情のまま、真柴が仕事部屋へ入り荷物を置いたようだ。浴室へと歩いていくのを見送ってから桜は定位置となったソファに寝転びテレビのリモコンを握る。
「おー。これこれ。話題の恋愛ドラマ」
ドラマとか見るの久しぶりだな。いつぶりだろ。
初回放送とのことで、勝手に録画もしたが真柴は許してくれるだろう。ブランケットを足下にかけてくつろいでいると、30分程ドラマの内容にどっぷりハマってしまって真柴に声をかけられても気づかなかった。
ぽん、と何か柔らかいものが肩に触れた。ドラマの世界から一気に現実に引き戻されて少し名残惜しくもある。
しかし、ここは真柴の家だ。真柴家のルールも遵守しなくてはならない。特に住み込みで働く桜のような者は、主人との協調性が肝心だ。
即座に振り返ろうとしたその時
「そのドラマおもしろいのか?」
「っわ」
ぐっと隣に腰掛けてきた真柴に肩をまわされる。
な、なにこれ……。男同士で家の中で急に肩組むのって普通?
真柴の肩と桜の肩が触れ合う。白いTシャツ越しに真柴の体温を感じて動揺が止まらない。
「い、今見始めたとこだけどたぶんおもしろいと思う」
「そうか。録画してあるか?」
「あっ、うん」
「じゃあ後で見よう。今は桜が作ってくれた手料理を冷ましたくないからな」
ほのかな気遣いに触れて心が満たされていく。真柴は本当に相手が欲しい言葉をよくわかっている。人たらしの策士なのだろうか。
でもそんな真柴の後ろ姿を見て、右手に持っているものに目が釘付けにされてしまう。
なんだ。あのもふもふは。
桜の視線がそれに向いていることに気づいた真柴は、そのもふもふを右手に装着して動かし始めた。
「……」
真柴が無言のままそのもふもふをふりふりして見せてくる。なんとリアクションしていいか迷って、真柴の顔とそのもふもふを見比べてからわからなすぎて近づいてじっくり観察してみることにした。
「真柴さん……? なにこれ」
「今日の撮影現場で置き去りにされてた子だ。引き取り手がいないようだったから、俺が持ち帰ってきた」
試しにつんつんとそれを触ってみると、見た目通りもふもふとした触り心地だ。
「なんだこれ。猫のぬいぐるみ?」
「惜しいな。正確には猫のパペットぬいぐるみだ」
何が違うんだよ。
初めて見るパペットぬいぐるみとやらにガンつけていると、真柴がその白い猫を上手に動かして桜の肩をとんとんと押してきた。
「な、何?」
「桜と似てるだろう? ほら。双子みたいだ」
「なっ! 俺とこいつが双子? どこが似てるんだよっ」
パペットぬいぐるみ如きに似ていると言われるのは癪だった。
なんてったって俺はビジュがそこらの人間よりも良いのが最大の武器だ。なのにこんなちっこい猫に負けてたまるか。
めらめらと闘争心を燃やしていると真柴が少し弓なりの唇を引いて桜を見つめてきた。普段の真顔とは違う、幾分か穏やかな表情だ。
「色白のところ。つんつんしてるところが猫みたいに見える時があってな……気分を害してしまったのならすまない。この子は桜にあげようと思って持ち帰ったんだが、俺の仕事部屋に飾ろう」
「そうだったんだ」
なんだかせっかくの贈り物を断るのは気が引けて右手を突き出した。「くれ」のポーズのつもりだが真柴には伝わるだろうか。
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