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第70話 大沼のモデルの仕事
「そんな顔しなくてもいい」
大沼はくつくつと喉を鳴らしながら笑う。
「まあ簡単にいえば、モデルをしているときは俺の言うことをなんでも聞くということだ」
「……なんでも」
桜の顔がみるみるうちに青ざめていくのを、大沼は楽しそうに見つめる。
「安心しろ。素人のお前にそこまで期待していないからな」
「……わかった」
桜が答えると大沼は満足気な笑みを浮かべた。
「よろしく、桜」
(いきなり呼び捨て……。真柴さんでさえ、くん付けなのに)
「よろしく」
そういえば大沼の下の名前を聞いていなかった。
「俺は|大沼充《おおぬまみつる》だ」
大沼は画材の用意をするといって、リビングを出ていった。一人残された桜は床に体育座りをする。冷たい床に身体中の体温が奪われていく気がした。
自分にモデルなどつとまるのだろうか。桜はそっと赤く糸を引いている傷口に手を重ねる。
綺麗とは言い難い体なのに……。
しばらくぼーっとしていると、大沼がリビングに繋がる廊下で仁王立ちしていることに気づく。その威圧感は言葉に出来ないものがあった。
桜は先程座っていたソファの前の床に座らされた。そこは柔らかなラグが敷いてあり床の冷たさを感じずに済んだ。
「まず柔軟からだ」
「え、柔軟?」
「足伸ばせ」
桜は言われたとおりに足を伸ばす。自分ができる限界まで長座体前屈をしてみたが、今度は足を開けと言われる。
逆らえないのでいやいや足を開いた。少しバスローブがはだけてしまう。
桜は足を限界まで広げて上半身を前に倒した。柔軟に苦手意識はなかったので、桜は大沼の言うがままに様々な姿勢で柔軟に取り組んだ。
大沼はそれをソファの上から眺めている。
ときどき筆を持って桜の身体をなぞるような動きをしながら。
「柔軟は終わりだ。ポーズを作るぞ」
桜は大沼のあやつり人形になったかのように手足を動かされる。
「これに着替えろ」
大沼に投げ渡された衣装に身を包む。大沼がコーヒーを入れにいったので、その隙にバスローブを急いで脱ぎ、衣装に着替える。初めて見る衣装に気持ちが上向きに揺らぐ。
それはまるで中世の王子様のような衣装だった。ホワイトのシフォンフリルのブラウスの上に紺色のベスト。それにはゴールドの刺繍が施されている。ジャケットは純白のホワイト、襟にはゴールドの箔押し。キラキラと輝いている。ズボンはホワイトの引き締めのあるタイトなもの。ゴールドとホワイトのブーツが足元を引き締める。
「そのまま動くなよ」
念入りにポーズをチェックすると大沼はソファの上に戻っていく。桜も身体を動かすまいとピタリと停止させた。そこからが長かった。
王子様が両手を伸ばして天を仰ぐようなポーズ。
一時間は同じ姿勢で耐えられたが、筋力のない桜には腕を上げ続けるのは無理だった。特に衣装の布の張りに引っ張られてぷるぷると腕が震えてしまう。
自然と腕が下がっていく。その度に大沼に注意を受けて、桜の顔はこわばっていった。
見かねた大沼がデッサンを中断する。
「……ごめん」
桜はかくんと腕を落として大沼に謝った。
「初めてにしてはよくやったほうだ」
意外にも大沼は桜を責めなかった。それに驚いていると、小休憩にと、のど飴を渡してくる始末。
小さくお礼を言いながら桜はぶどう味の飴を舐めた。思いがけない言葉をかけられ、桜は大沼の顔をおそるおそる見上げた。
「俺もプロだ。仕事とプライベートはちゃんと分けている」
桜は恥ずかしくなった。
(そうだよな。これは仕事なんだから俺も集中しなくちゃ)
その後もデッサンは続き、桜は一生懸命ポーズを固定することに全神経を集中させた。
「終わりだ」
2時間はあっというまに過ぎていった。桜は肩の力を抜くと、脱衣所で衣装を脱いで服を着始める。
大沼は桜にオレンジジュースを手渡す。冷えていてむせかえるような甘さだった。
「やはり子どもにはオレンジジュースが似合うな」
くしゃり、と大沼が桜の髪を撫でた。まるでほんとうに子どもにするかのような優しい手つきで。大沼の態度が急に柔らかくなったことに違和感を覚える。桜は先程の謝罪を思い出した。
(俺は売り専として真柴さんに雇われていないから、この人は俺に敵意を見せてこないんだ)
納得したような、しないような。
でも一番気になるのは真柴さんの愛した『おびひと』さんのこと。
(……今の雰囲気なら大沼さんに聞けるかな)
桜は深呼吸をして大沼に正面から向き合った。
「大沼さん。俺に『おびひと』さんのこと教えてくれ」
大沼はブラックコーヒーをテーブルに置くと、真剣な眼差しで桜のことを見つめる。桜は大沼の眼差しに負けないように、キッと見つめ返した。
「本当に聞きたいのか?」
大沼の声が沈黙を破る。桜は自分の胸に問い直してみた。
「ああ。俺、真柴さんのこともっと知りたいから」
「それはお前の好奇心によるものか? 残念だが好奇心くらいで友人の過去を教える気にはなれない」
桜はぎゅっと着ていたパーカーの裾を握る。
「好奇心なんかじゃない。俺は俺を救ってくれた真柴さんに恩返しがしたいだけだ」
「鶴の恩返しってやつか」
大沼は鼻で笑って電子タバコをくわえた。
「ただ俺は……あの人が、真柴さんが寂しそうに笑うのはもう見たくないから」
本音がぽろりと桜の口から飛び出た。
「寂しそう、か」
大沼はアイコスを離すと桜の目を覗きこむように見つめた。桜の目は嘘をついていなかった。
こんなにかぼそい身体で、声で。
(こいつは睦月のことになると一生懸命だ)
大沼は真柴を救えなかった。学生時代の唯一の親友だったのに。
だが桜なら……。もしかしたらあいつをこの長く深い悪夢から救い出せるかもしれない。そんな予感をさせる。
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