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第72話 真柴の過去の光(side 大沼)
「睦月。明日までの課題終わらせたか?」
ある日の授業終わり。俺はいつものように話しかけた。
午後の柔らかな日差しがキャンパスに降り注ぐ。その淡い光の中で1人の男が机に頬を押し上げていたのをゆっくりと持ち上げて俺を見上げた。
「全然終わってない」
「お前留年しても知らねぇからな」
お前はなぜかいつも無気力で無愛想な表情を浮かべるだけだったな。
この頃から、俺にとってお前はすごく変わり者だった。
「手伝ってくれるのか?」
期待のせいか瞳の奥に光の粒をためた睦月を見て、俺は仕方ないなと睦月の課題を手伝うことにした。
課題といっても美大ならではのものが多く、この絵について論じなさいとか、模写してきなさいとか。手伝うという概念がない課題ばかりなのだが。
睦月の帰り支度を待っていると、不意に鼻歌を歌い始める。何事かと思って声をかけようとすると、睦月はガラケーをぎゅっと握りしめていた。
俺が聞いてもいないのに、そこから睦月のノロケ大会が始まる。
「今日、帯人 が夜ご飯食べに来ることになったから、課題は一人でやることにする」
「……さっきまで手伝えとか言ってなかったか」
「俺は自己解決力を伸ばす時期に差し掛かったんだと思う」
どんな理屈だよ。
教室を出て階段を下りる。入学当初は迷子になりそうだったキャンパスとも、もう2年の付き合いだ。どこに何があるかは手に取るようにわかる。
睦月は軽くステップを刻みながら歩き続ける。
ほんとに帯人大好き病だな。
「ちゃんと課題はやれよ」
帰り際、お互い電車通学だったので駅まで同じ道を歩いた。下りと上りで線が違うので、睦月とはいつも改札で別れる。別れ際、睦月はスマホに釘付けになり耳にはイヤフォン。おそらく、帯人とメッセージを取り合っているんだろう。いつもは無表情な堅物の顔の目元が柔らかく緩んでいた。
その後ろ姿が見えなくなるまで俺はじっとその背中を目で追った。
細川帯人
睦月の近所に住んでいる兄のような存在らしい。しつこいくらいに帯人の写真を見せてくるので、すでに顔と名前が脳にすりこまれている。
一度だけ睦月の家で帯人に会ったが、睦月が夢中になるのも理解出来た。写真に映る帯人はかなり男前で、きりっとした細い眉の曲線も完璧。
スっと高い鼻筋や、二重のパッチリ開いた瞳。そのすべてがパーフェクトだった。
睦月も20歳にもなってあの反応だ。
そうとう帯人という男に甘やかされて育ったに違いない。
大学に入学してすぐ、俺と睦月は出会った。
その日はデッサンの授業で、俺は電車が遅延していて授業開始に間に合わなかった。朝から憂鬱な気分で階段を登る。教室の前に着いたが、案の定シーンと静まり返っている。皆が静かにデッサンをしている最中に教室に入るしかなかった。
ガラガラと俺が教室の引き戸を開けると、皆の視線が矢のように突き刺さりうんざりした。もともと注目を浴びたいタイプではなかったので、ほんとうに恥ずかしかったのを覚えている。後ろほうの席が空いていたので、そっと椅子を引いて座った。
今日はなんのデッサンなのかきょろきょろとあたりの画を見まわしたが、どれも描き始めでよくわからない。教授は年のせいか居眠りをしていて、友達のいない俺は聞くに聞けない状態だった。
そんなときだ。睦月と出会ったのは。
つんつんと肩をつつかれて振り向くと、斜め後ろの席の顔立ちのすっきりとした女が小声で話しかけてきた。
「今日のデッサンのテーマは、この教室にあるものならなんでもいいらしい」
「適当すぎ」そう言うと女はクールな横顔を見せて微笑んだ。その優しげな笑みに俺は一瞬、女神を見たと思った。
「……ありがとう」
そう伝えてから俺はデッサンにとりかかった。
チャイムが鳴り響き、今日のデッサンの授業は終了した。
ようやく眠たげなまぶたを開けた教授が、出席表を配り始める。皆、そこに学年と名前を書いて教授の座っていた席に置いていく。
人もまばらになった頃、スタートこそは遅かったが俺はデッサンを無事に終えた。
教授が自分の荷物を片付けはじめたのを見て、急いで出席表を取りに行こうと席を立ったら、またつんつんと肩をつつかれた。
「出席表2枚とったから、よかったら使って」
女神はまた俺に微笑んだ。
「ありがとう」
学年と名前を書いていると、女神が俺のデッサンを見つめていた。
「あの、これって」
「ああ。教室にあるものならなんでもいいんだろ」
女神は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「これ嬉しいんだけど……俺、男なんだよね」
「……ん?」
デッサンの中に浮かぶ女神は二人の様子を見ながら微笑みを浮かべていた。
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