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第75話

「そうそう。カメラを持っていたから、撮影か何かで近くを通りかかって寄っただけかもしれないけど」 「それっていつ頃ですか?」 「えーっと、いつだったかなあ……。桜の咲いてる季節だったから、今年の4月頃だったかのう」  今は8月。およそ4ヶ月前か。  なぜだろう。睦月は今福岡で田中孔明の元で住み込みのアシスタントをしているはずだが。  俺は教授に再度お礼を言うと、古い記憶を辿って睦月の実家に向かった。  夕陽も落ちた頃、俺は焦る心を落ち着かせて真柴と書かれた名札を見つめた。  ピンポーン。  ボタンを押すと、しばらくしてから母親の声が聞こえた。 「遅くにすみません。美大生の頃、睦月と友達だった大沼です」  友達だった。  今も睦月は俺のことを友達としてみてくれているか不安で、つい弱気になってしまう。俺らしくもない。 「あらまあ! 久しぶりね。覚えているわ大沼くん」  睦月の母親がインターホンを切ると、すぐにドアの鍵が開く音がした。  あの夏の日のように玄関まで出迎えてくれる睦月の母親。 「すっかり大人ね」 「ご無沙汰しています。しばらく海外に行っていたので、睦月と連絡が取れていなくて……」  嘘だ。  ちゃんと連絡先を知っていれば、海外からだって睦月と連絡は取れる。俺は嘘をついた。 何のための、誰のためについた嘘かもわからない。  でも、心の中ではわかっていた。それは自分を守るための嘘だと。 「あの、睦月は……」  玄関口に睦月のものと思われる靴が置いてあった。実家用だろうか。かなりくたびれている。 すると母親は顔を曇らせ、とりあえず中へと俺を招いた。 「大沼くん。わざわざ家まで来てくれて申し訳ないんだけど……」 「睦月に何かあったんですか!?」  俺はいてもいられなくなって、母親の肩を掴む。母親は足がすくんでしまったのか、そのまま座り込んでしまった。  自分が高身長で強面なのを忘れていた俺は、あわてて母親に手を伸ばす。 「すみません。我を忘れてました」 「ええ、大丈夫よ。ちょっとびっくりしただけだから……」  母親は震える足で立ちあがると、俺に椅子に座るようにうながした。椅子に腰かけると、あの頃の思い出がさらに濃くなる。  俺を家に誘っておきながら帯人にべったりだった睦月。  そしてそれを見ていることしかできない悔しさ、卑しい嫉妬心。  どれもこれも捨てた感情だと思っていたのに。  俺はまだ帯人に嫉妬している。  たった一度しか会ったことのない奴に、どうしてこんなにも心が揺さぶられるのか。 「帯人くんって覚えてるかしら?」 「はい。もちろんです」 「彼、お医者さんになったの。頭が良くて、でもそれを威張ることもなくて……ほんとうにいい子だったわ」  どうして睦月の母親はそんなに痛々しく笑うんだ。帯人をまるで我が子のように語りながら。 「ちょうど今年の4月頃ね。彼、死んだの。赴任先で」  帯人が死んだ。  なぜ、どうして、どこで、どうやって死んだ。  俺は半ば放心したように机の上にかけられたテーブルクロスに目線を落とした。母親は涙を流し、嗚咽まじりに言葉を続ける。 「彼、国境なき医師団の医師として海外に派遣されたの。自分から志願したらしいわ。そこで爆発に巻き込まれて死んだの」 「どうして俺にそんな話を……。俺は睦月の身に何かあったんじゃないかって」  言い終わって俺ははっとした。  そうだ。あいつは帯人のことが好きだった。  急に死んだと聞かされて、はいそうですかと言えるはずがない。 「睦月は……今どこにいるんですか」  母親は啜り泣くように言葉を発した。 「それが、あの子それ以来おかしいの。帯人くんのお葬式には来たんだけど、涙すらこぼさなくて……あの子らしくないのよ」  あの子らしくない、その言葉に心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。 「お母さん、それで今睦月はどこに?」 「今は福岡で仕事をしているわ。でもおかしいでしょ。実家には帰ってこなくなったし……」 「でも、玄関にあった靴は……」 「あれは昔、帯人くんがあの子に買ってあげた靴よ。あんなにぼろぼろになるまで履き潰しても捨てられなかったのね……」  帯人、帯人、帯人、帯人。  どうしてこの男は、死んでもなお睦月に影響を与え続けるのだろう。  良い影響なら文句はないが、母親の話を聞く限り悪い影響のほうが強そうに思える。 「お母さん、睦月は住み込みでアシスタントをしているって言ってましたよね?」 「ええ、そうよ」 「俺、睦月に会いに行ってきます。昔の友人の俺なら、もしかしたらあいつの助けになるかもしれません」 「大沼くん。昔の友達じゃないわ。今もお友達でしょう?」  母親は泣き腫らした顔を優しく歪ませた。  それは微笑みと受け取るべきか、それとも泣き顔ととるべきかに迷う表情だった。  母親に睦月の住み込みで働いているという家の住所を聞き出し、俺は次の日の朝一番の飛行機を予約した。  睦月の家から帰る途中、俺はやはり帯人という男の存在が煩わしかったのだと改めて感じた。  睦月が口を開けば、帯人、帯人。  それにうんざりしていたのは、自分でもわかっていたのに。  とにかく、明日睦月に会って母親が心配していることを伝えよう。  ようやく最寄り駅に到着した俺は、実家に向かって歩きだした。  歩いても歩いてもしつこくついてくる月は今日はいちだんと輝いていて、うざかった。  まるでそれは帯人のようで、俺は掴めないとわかっていても空に浮かぶまんまるな月を拳でひねりつぶした。  俺は結局、何も変わってない。  図体だけが大人になっただけで、中身はガキのままだ。  あの夏の終わり、2階に行ってしまった2人をただ指をくわえて見ているだけのガキのままだった。

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