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第77話
俺は先程まで座っていたソファに腰かける。睦月は立ったまま、心ここに在らずといったふうだった。
「お前も座れよ」
俺の言葉を聞いて睦月はゆっくりとソファに腰かけた。
「なんで来た?」
睦月が口を開くのを待つこと20分。
沈黙していた睦月の口調は、やや怒りを含んでいるようだった。
「お前の実家に行った。母さんすごく心配してたぞ」
「わかってる。なんだ? わざわざそれを言うためだけに福岡まで来たのか?」
まるで干渉するなというように睦月は俺を睨みつけてきた。睦月に睨みつけられるなどとは思いもしていなかったからか、俺の体はじわじわと後ろに引き下がりそうになった。
一呼吸置いて俺も睦月を真っ直ぐ見つめながら言った。
「お前、朝帰りなんかしてどこに行ってたんだ」
「お前には関係ない」
踏み込まれたくない話なのか、睦月はふいっと顔を横にそらした。
「いい加減にしろよ。お前プロのカメラマンになるんだろ! ここで立ち止まってる場合じゃねえだろ」
俺は睦月の態度が気に食わなくて、怒鳴るように言ってしまった。睦月は次第に顔を歪める。
「うるさい! お前には関係ないだろ」
睦月の怒鳴った姿を俺は初めて見た。
俺の知ってる睦月は女神みたいに微笑んで、優しくて明るくて。こんな睦月は知らない。
睦月をこんなふうに変えてしまったのも、あの男なのか。
どうして、どうして俺はいつも睦月のそばにいてやれないんだ。
帯人じゃなくたっていいだろう。
たらればは世界で一番嫌いだが、今はたらればでしか語れない。
もし、俺が睦月の家の近くに住んでいれば女神をいじめっ子から救ってやるのに。友達がいなくたっていい。俺が中学も高校もお前と友達になれば。
後悔? 運の悪さを嘆く?
違う。俺は睦月をこんなふうにさせた帯人が許せないだけだ。
俺は相変わらず自分のことは棚にあげて、他人のことばかり文句を言うガキだ。本当に何も変わってない。
3年間フランスで修行したことも、美大の4年間の睦月との思い出も、今目の前にいる睦月には何の意味もないんだ。
「……そうだな。俺は関係ねえよな。」
頑固な俺が口喧嘩で睦月に負けたことはただの一度もない。
だからだろう。
睦月は顔を上げておもしろい顔をしている。驚きと悲しみとそしてほんの少し寂しさと。まぜこぜの感情が睦月の表情を強ばらせている。
わかったよ。
俺と帯人の違いが。
俺はお前のことを笑顔にさせられない。
たったそれだけのことに気づくのに、何年も時間が必要だったんだな。
「俺が口出しするようなことじゃねえよな。悪かった」
俺は立ち上がると、ハンガーにかけてあるカーディガンを羽織った。
「帰るのか?」
睦月がかぼそい声で聞いてきた。俺は睦月に背を向けているから、どんな顔をしているのかはわからない。
けど、俺の見たい女神の微笑みじゃないことは馬鹿な俺にでもわかった。
「俺も仕事があるからな」
「……そうか」
俺の心が変わる前に、早くここを出ていかなければ。睦月は静かに階段を登って上の階へ行ってしまった。
玄関で靴を履いていると、奥に戻ったはずの田中氏がいつのまにかすぐそばにいた。
「いいんか。友達なんじゃろう?」
「いいんです。俺は睦月に何もしてやれないから」
タクシーの運転手にもらった傘を持って外に出た。傘を開くと大粒の雨が打ちつけてくる。ここでは厚い雲に隠れてしまって、太陽は見えない。
俺は逃げるようにタクシーを拾える大通りまで歩いていった。
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