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第84話 陽のあたる場所
桜が真柴の家に着いたのはその日の夜だった。
大沼の家で帯人の話を聞いていたら、こんな時間になってしまった。幸い、まだ真柴は帰宅していないようでほっと胸を撫で下ろす。どこに行っていたか聞かれるのは避けたかった。
帯人の話を聞いたからだろうか。あまり食欲がわかない。そこで、弟の瞬に近況報告ついでに電話をかけることにした。電話の約束を決めずにかけるのはめったにないが、出てくれるだろうか。一抹の不安はあったがすぐに吹き飛んだ。
朗らかな声がスマホ越しに聞こえてきたから。
『にいちゃん? どうしたの急に。何かあった?』
「ううん。ただ、新しい仕事の近況報告ついでにお前の声聞きたくて。今、忙しかったか?」
『ううん。ちょうど夜ご飯食べ終わったところ。自分の部屋で音楽聞いてた』
よかった。タイミングは悪くないみたいだ。
『にいちゃんの新しい仕事は順調?』
「ああ。雇い主が優しくて最高。こんなに楽しい仕事、初めてかも」
『へえ。良かったね。にいちゃんが楽しいなら俺も嬉しい』
「ありがとな」
『にいちゃんは恋人できた?』
「なっ!?」
急に予想していなかった質問をされてたじろく。
「な、なんだよ急に」
『あー焦ってる。ってことは……?』
「大人をからかうんじゃない。お前こそどうなんだよ」
『んー。気になる子はいるけど、友達のままのほうが楽しい気がするんだよね』
「なるほどなあ。そこらへん難しいよな」
2人で近況報告をし合い、恋バナをして何気ない時間を過ごすのは久しぶりだった。いつのまにか瞬も成長しているみたいだ。桜は幼き頃の瞬の姿を瞼の裏に思い浮かべる。
「にいちゃん」と桜を慕い、後ろをくっついてきたかわいい瞬。両親が亡くなって教会に引き取られてからも、ずっと一緒に過ごしてきた。あの温かな日々を思い出すと胸が苦しくなる。二度と戻れないとわかっているから、尚更。
そろそろ真柴が帰ってくる頃だと思い、瞬に「おやすみ」と伝えて通話を切った。真柴は急に仕事で呼び出されて疲れているはずだ。先に風呂に入って、簡単に作り置きしておこう。真柴が帰宅してからすぐに食べられるように。
その日の夜、昼間の宣言通り真柴の帰宅は遅かった。桜が作り置きを冷蔵庫に入れてソファでうたた寝をしている頃に玄関のドアが開く音が聞こえた。
朧気な眠気のまま、ソファからは立ち上がりたくなくてそのまま目を閉じていると静かな足音がすぐ側まで聞こえてきた。そして、そっと真柴の手のひらが桜の頬を包む。
急接近に内心どきどきしていると、桜が寝たフリをしているのがバレたのかくすくすと頭上から笑い声が聞こえてきて仕方なく桜は両目を開いた。
「っ!」
そこには桜の頭を両腕で囲うように微笑む真柴の姿があった。鼻先がくっついてしまうんじゃないかという近距離に思わず後ずさると、真柴はくくくと笑い始める。
(からかわれているのだろうか?)
「遅くなって悪いな。眠かったろ。でも、俺にたぬき寝入りは通用しない」
(ああ。よかった。いつもの真柴さんだ)
大沼から帯人の話を聞いた後では真柴に対する印象も変わっていた。苦しみや悲しみを乗り越えた強い人。そんな内なる強さを秘めた真柴のことを心の底から尊敬していた。
「先に風呂に入ってくる。飯は食べたか?」
「うん。真柴さんの分は作り置きして冷蔵庫に入れてある。タッパーの中に中華春雨サラダと鮭のムニエル、お茶碗にご飯が入ってるから良かったら食べて」
「ありがとう。じゃあ、風呂から上がったら食べる」
「うん。仕事……お疲れ様」
桜の言葉に真柴はやや瞳を丸くさせてから、くしゃりと頬を持ち上げて笑った。
そんな素の笑顔の真柴を見るのが初めてで桜はやはりこの男のことが気になって仕方がなかった。こんなにも簡単に自分の心を揺さぶる人。
(俺を救い出してくれた救世主みたいな人)
そんな真柴を過去の苦しみから救うためならば、何でもやろう。
そう言い聞かせて桜はダイニングテーブルに作り置きした料理を並べ始めた。
「すごく美味かった」
風呂から上がった真柴はすぐに夕食を食べ終えてしまった。余程お腹が空いていたに違いない。中華サラダを多めに作っておいて良かった。ぺろりと完食してしまったから。
こうして自分の手料理をいつも美味しいと言ってくれる存在に救われているのは桜自身だった。食器洗いを真柴に任せ、桜は洗面所で歯を磨く。ふと、洗面所に吊り下げられたコップと、歯ブラシスタンドに自然と目がいく。
2人分のコップと歯ブラシ。なんだか恋人として同棲している気分だ。
そんな甘い感傷に浸っていると後ろから真柴が現れたので、半歩後ろに下がる。かわりばんこで歯磨きをすることになった。その時に近くにいすぎて肩と肩が触れてしまった。驚いて硬直していると、真柴は何食わぬ顔で鏡を見つめ、歯を磨き続けているだけだった。
変に意識しているのは自分だけなのだという事実に顔を紅くさせながら桜は先に口をすすいで寝室へ向かう。
毛布を整えて枕を定位置にセットする。
大沼からあんな話を聞いた日の夜に、いつものように抱き枕の仕事が出来るか少し心配ではある。けれどそれが自分の仕事だから、逃げることはしたくない。
何より、今この距離で真柴の隣にいられるならそれで十分だった。
「待たせたな」
ベッドの上に腰掛けていると真柴が部屋に入ってきた。ゆっくり近づく足音に自分の心音も鼓動するように高鳴る。
「今日は慌ただしい日だった。無事に帰れたか?」
「う、うん。帰ってから家でゆっくりごろごろしてた」
毛布を持ち上げられベッドに入るよう促される。既に定位置となった真柴の隣にくっつくと、毛布の中で身体に手を回された。
急な近距離に一瞬、頭の中が真っ白になる。
「明日は休みだから今夜はゆっくり寝れそうだ」
ふぁ、と真柴が大きく欠伸を洩らす。それがうつったように桜も小さな欠伸を洩らす。2人してその様子をくすくす笑っていたら、真柴に更に強く肩を抱き寄せられて桜は照れ隠しのために顔を伏せて笑う。
「そうなんだ。じゃあお昼過ぎまで寝れそうだな」
「ああ。今日入った仕事はかなり疲れた。だから桜。お前の力で癒してくれ」
「っ!?」
鼻と鼻がくっつくくらいの距離で真柴が珍しく甘えてくる。毛布の中で閉じていた足の間に真柴が割って入り身体が密着する。ぎゅーっと音が鳴るくらい強く抱き締められ桜は困惑した。きゅっと唇をつぐみ、様子を伺う。
真柴の表情はいたって真剣そのもの。仕方なく桜は甘やかす方向にシフトチェンジした。
「お仕事お疲れ様。今日はゆっくり眠れるから、抱き枕の俺を好きなように使って」
「……ああ。そうしよう」
くしゅ、とはにかみながら真柴が笑う。
(あ。笑ってる)
桜の精一杯の癒しモードオンに感心したのか、背中をよしよしと大きな手のひらで撫でてくれる。
(なんだか俺、赤ちゃんみたい)
気恥ずかしくなって俯くと、真柴が腕の中に桜を閉じ込めた。押しつぶさないように軽く抱擁される。そして、真柴の身体の上に重なるように桜の腰を持ち上げてきたのだ。
「わっ!」
「今日は抱っこして眠ろうと思う。おやすみ」
重要なことをさらっと言うだけで、真柴はすぐに穏やかな吐息を重ねて夢の世界へ飛び立ってしまった。
桜はちょうど耳の下に真柴の心臓があり、心音が聞こえてきて意識が朦朧となる。
(なんかすごいどきどきしてる……)
真柴の心音と自分の心音のリズムが重なっていることに気づき、そしてこの抱っこされたまま眠るという姿勢に改めて恥ずかしくなり身動きひとつ取れなかった。
結局、その日の晩はうとうとし始めたのは真柴が眠りについてから30分後で、その間ずっと真柴の体温に触れて身体がふわふわする心地だった。
(抱っこされたの、いつぶりだろ)
最後に抱っこされた記憶は両親が生きている時だった。幼い頃を思い出し懐かしさと同時に胸が締め付けられる。でも、もう大丈夫だった。桜には真柴という優しい人がいる。
(この人の腕の中にいると安心する)
服越しに触れる熱は決して桜を夢の世界でも離さなかった。
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