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第86話 仕事の疲労 (side 真柴)

 自分は何時間寝ていたんだろう。背中にはふわふわのソファの感触がある。朝起きて、頭が痛くて、身体中が熱くてソファに倒れ込んでしまった。  その後の記憶がはっきりしていない。確か、桜にお世話されたような気がする。ゆっくり目を開くと、ソファに横になりブランケットをかけられていた。ブランケットを持ち上げると、上下の服が変わっていた。着替えさせてくれたのだろうか。 「……冷えピタ」  真柴は自分の額に手のひらを当ててそう呟いた。冷えピタの感触が手に伝わってくる。だいぶぬるくなっているようで、自分が長時間寝ていたことにその時初めて気づいた。 (……また桜が不甲斐ない俺の世話をしてくれたのか)  年下にお世話されたことに気後れするが仕方ない。今朝はそれどころではなかった。  昨日の昼、桜とインテリアショップに行き買い物をした。ジャパンディインテリアのソファを購入して後日配送してもらうことにした。桜の部屋に置く予定だ。桜と一緒に家具選びをするのは楽しくて時間がいくらあっても足りないと思った。なんとなく、未来に向かってつま先だけでも向けられているような気がして、過去の足音は遠く静かに離れていくようだった。  本当はもっと桜と過ごしていたかった。けれど、仕事先から急に仕事を頼まれて断れなかった。  昨夜、俺が遅く帰ってきても桜は寝ないで待っていてくれた。いつからかな、その気遣いと優しさに癒されている自分がいた。  こんなふうに誰かと一緒に暮らして、食事をして、抱き寄せて眠る。その時の温もりは言葉にできないくらい尊く感じられる。  今までの人生でそんなことは滅多になかった。  ただ一人だけ、大切なあの人としか経験したことがない。  細川帯人。  俺の初恋の人。昔、同級生からいじめられた時に助けてくれた俺のヒーロー。  年上の、賢くて、しっかりしていて、ひたすらに甘やかしてくれる。そんな彼のことが幼い頃から大好きだった。  あの日のことを思い出すと今でも涙が溢れてくる。桜に知られたくないから、仕事部屋で泣くに尽きる。  帯人の葬式にはたくさんの人が参列していた。帯人に助けられた患者たちや、国境なき医師団の関係者、大学の医学部の後輩たち。  その時になって初めて、俺はどんなに帯人が遠い存在なのかを知った。  俺には帯人しか見えていなくて、医者として働くことがどれだけ多くの人に感謝されるのかなんて気にもとめていなかった。  棺にいない帯人のことを何度も想った。  寝室に置いてある写真たてには、その国に赴任した後に帯人が送ってくれたポストカードを入れてある。その国の国旗が描かれた鮮やかなポストカードで、裏面には帯人からのメッセージが書かれていた。 『親愛なる睦月。こちらは赤道近くで暑いよ。日本は今、冬だから寒いだろうね。帰国したらまた一緒に東京タワーに行こう。あの夜景をまた睦月と見たい。文明社会が愛おしい。睦月の仕事の成功を祈っているよ』  それが帯人が送ってくれた最後のポストカードだった。目に入ると涙が溢れてきて仕方がないから、伏せて置いてある。その判断は間違ってないと思い続けてきた。だけど、こんなふうに熱を出した時にはまた帯人を思い出してしまう。寂しさからだろうか。あるいは、拭いきれない初恋への未練からだろうか。  昔、俺が大学生だった時に熱を出したら熱心に看病してくれた兄のような存在。そして俺が愛した人。心の支えだった。俺の弱い所をさらけ出せる唯一の人だった。  目頭が熱くなるのを感じてぎゅっと目を閉じる。  幸い昨日までに締切の近い仕事は終わらせていた。桜の言うとおり今日は休もうと思った。  俺は睡魔と熱による身体の浮遊感に再度意識を手放した。  瞼の裏には帯人の大好きだった桜吹雪が舞っているのが見えた。

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