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第87話 帯人との出逢い(side 真柴)

 夢を見ているのだろうか。  そよそよと風の囁く声が聞こえた。  ……まだ寝足りない。  俺は両手で耳をふさぐ。  まだこの心地よい感覚に身をゆだねていたかった。  ここ最近はメインの活動拠点を東京に移したためか、新しい仕事が山のようにやってきて身体は嬉しい悲鳴をあげていた。  そのほとんどがカメラマンの自分を必要とする仕事で、最近は絵を描く暇さえなかった。趣味で描く暇もないくらいに、スケジュールは撮影予定で埋まっていた。  芸能人と一緒に働けるなんて羨ましいと言われるカメラマンの仕事だが、実際のところ話すのは挨拶をするときくらいだ。  そのあとはずっとカメラのシャッターを切って、声をかけて、また切って。  そうやって何百枚、何千枚の写真を撮っても使われるのは数枚だけ。ボツになることだってある。めげない気持ちと粘り強くやり続ける継続力がないとやっていけない仕事だ。  カメラマンの意見も求められるが、気難しい人を撮るときは本人の意見を尊重して決める。  つくづく、気を遣う仕事だと感じていた。  大御所と言われる先輩カメラマンともちょうど良い距離を保たなければならない。  行きたくない飲み会も、強制参加の打ち上げも。  皆、優しい俺を求めるから、それに応えるように行動する。  いつからか俺は仕事に全てを奪われた。  自分のなりたかったカメラマンとは、こんなにも人に気を遣う仕事だったのか。  ただ良い写真を撮ることだけに集中したいのに。  酒や女がそれを邪魔してくる。  飲み会の終わった後、無理やりキャバクラに連れていかれた。  爬虫類のような女が腕をからめてくる。  先輩の下手な歌に合いの手をいれる。  料金トラブルが起きた席から怒号が飛び交う。ボーイが頭を下げている。待機所からはみ出したキャバ嬢たちが空いてる席で携帯をいじっている。  先輩が酒を飲ませてくる。  俺は煙草と女たちから漂う様々な種類の香水の匂いに吐き気をもよおす。  トイレに向かうと、隣に座っていたトカゲがあとを着いてくる。  鬱陶しい、香水臭い、くらくらする頭を抱えてトイレに辿り着く。  全てを吐き出して口をすすぐために鏡で自分の顔を見る。  自分の顔とは思えないほどだらしがない。  トイレから出ると、待ってましたといわんばかりにトカゲがおしぼりを差し出してくる。  見たくない。こんなの見たくない。  俺が見たいのはレンズの向こうだけなのに。 ◇◇◇ 「睦月」  と、あの人の声が俺の名前を呼ぶ。  その声音は優しくてあたたかくて、俺の全てを包み込んでくれる。ささくれ立った心さえも、その声を聞いたら落ち着きを取り戻す。  何年経っても思い出は消えない。むしろ鮮明に思い出す。  帯人は春が好きだった。  春は新しい生命が生まれる季節らしい。  葉も花もない寒そうな木々が、土の中で眠っていた種が、春になるとみんな化粧をして踊り出す。  芽吹く春、と帯人は言っていた。  そういえば初めて帯人と会ったのも春の終わり頃だった。  学校で女みたいだとからかわれ、嫌がらせを受けていた俺は毎日がモノクロの世界で生きていた。  幼稚な嫌がらせだったと今なら思える。  でもまだ幼かった俺は、悪口こそが真実だと思いこんでしまった。  自分ではそうは思わないけれど、他人から言われたらそれはあっというまに噂され、多くの人に広まり、真実に変わる。  その真実を証明するかのように、何人もの人間が擁護し声高らかにうたうのだ。  自分の身を自分で守ること。  それはやってみるととても難しいことに気づく。  一対一ではないからさらに難しくなる。  俺を助けてくれるような友だちもいなかったから、ずっと一人だった。  だからあのとき見た広い背中は忘れられないと思う。  いじめっ子たちと自分の間に入ってくれたお兄さん。  そのお兄さんはその子達に怒鳴るわけでもなく、暴力を振るうこともなく自分を助けてくれた。  帯人は大人だった。  いじめっ子たちを諭して帰らせた。  俺にとっては突然現れた救世主のように見えた。  それから俺はほんとうの兄のように帯人に懐き、ずっと一緒にいた。  帯人は毎年、春になると必ず俺を花見に連れていった。  レジャーシートを敷いて、そこでお弁当を食べるような花見ではなかった。近くの公園や用水路沿いにある桜を近くで見たり、道路の反対側から見たり。散歩のついでのような花見だった。  俺はどうしてそんなことを繰り返すのか帯人に聞いたことがある。  どこから見てもどこにある桜でも、俺は全て同じに見えたから。 「睦月はもったいないなあ」  そう言って眉を垂らして微笑むのだ。 「なにがもったいないの?」 「桜のいろんな表情を楽しめないのは、すごくもったいないなあって」 「表情? 桜に顔なんてないよ」  俺は目の前にある桜を指さす。  帯人はくすくすと笑って俺の頭を撫でるのだ。 「もう少し大人になったら睦月にもわかる時が来るよ」  帯人はいつも含みのある返しだけして、答えは教えてくれなかった。  でも、そのおかげで俺は立ち止まって物事を考えるようになった。  もしかしたら帯人のいうように、桜にも表情があるのかもしれない。  そう考えてからは、一つの風景を様々な角度から見れるようになった。  きっと帯人に言われなければ、自分からやったとは思えない。  そのおかげで俺はカメラに興味を持つようになった。  中学、高校と美術部だった俺は大学も美術専門の大学に行こうと考えていた。  美大に行けば、小さい頃から好きだった絵画も学べるしこれから始めようと思っているカメラの技術も学べる。  地元の学校から美大に進学する人はめったにいなかったようで、先生たちはあまり俺の進路を褒めてくれなかったが、帯人や両親が褒めてくれただけで十分幸せだった。

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