98 / 109
第98話 もふもふ桜猫
「ああ。やっと来たか」
画材を用意していた大沼が、まず桜に気づく。次いで、真柴も後ろを振り返り桜の姿を目で捉えると、鳩が豆鉄砲を食らったように目をぱちくりさせた。
「さく、ら?」
「……やっぱり変だよな」
真柴の動揺が桜にも伝わるくらい、この衣装はおかしいのだろう。
「……か、か、わ……」
消え入りそうな声で真柴が何か呟き急いで手のひらで口元を覆ってしまった。桜は仕方なく大沼に向かって異を唱える。
「この衣装をデッサンモデルに着させるってどういう魂胆だ?」
イライラを抑えきれずに放てば、大沼は全く驚く素振りもなく平然と答える。
「たまにはこういう趣向も良いと思ったから着させただけだ。モデルなんだから黙って言うこと聞いとけ」
「うぐ……」
大沼に指さされた床の上には、白いほわほわとした丸いラグが置いてあった。そこに座れという指示らしい。確かに大沼の言うことは最もなので渋々ラグにおしりをつけて体育座りをした。幸い、ラグが分厚いから長時間過ごしても身体は痛くならなさそうだ。
「睦月。準備できたら始めるぞ」
「あ、ああ」
真柴は1拍置いてから返事をする。
桜はデッサンの準備をする二人をじっと観察することにした。大沼は以前と同じくイーゼルの上に大きなスケッチブックを乗せて用意をしている。真柴も同じくイーゼルの上にスケッチブックを乗せていた。
イーゼルがあると、一気に芸術家っぽくなるから不思議だ。
(それに今日は真柴さんの絵を見れるわけだし……悪くない、かも)
手馴れた手つきで準備を進める姿を見て頼もしさを感じていると、さっそく大沼が桜に指示を出す。
「今日のお前のテーマは黒猫だ。そのために、黒いもふもふの衣装を用意した。あとはこれを頭につければ完成だ」
ぽいっ、と大沼が投げてきた物体をキャッチする。
「ね、猫耳?」
「本格的でいいだろう? これでお前も黒猫の気分になりやすくなるはずだ」
「なっ! ちょっと待てよ。じゃあ、今日は俺が黒猫みたいな猫のポーズを取れってことか?」
「その通りだ」
にやりとほくそ笑む大沼が憎くてたまらない。
(黒猫のポーズなんて、めっちゃ難しいだろ)
心の中で大沼に唸っていると、不意に真柴の視線を感じて目線を上げた。ばち、と視線が交わり少し惚けたような表情を浮かべた真柴が柔らかく微笑んできた。そうすると、急に大沼への苛立ちや、黒猫になりきる羞恥心などがどこかへ飛んでいくのを感じた。
(モデルなんだから、冷静にならないと。それに真柴さんに描いてもらえるのは嬉しいし)
桜は覚悟を決めて、大沼が出す黒猫のポーズの指示に全力で応えていくことにした。まずは、ラグの上で香箱座りのポーズ。それを1時間ずっと。正座しているようなものだから、足が痺れてきそうで内心ひやひやしていた。けれど、静止しやすいポーズだったのでほっと安堵したのは事実だ。
桜は香箱座りをしている間、目線だけを上げてスケッチブックに向き合い鉛筆を走らせる真柴の横顔を見つめた。真摯な瞳と、背筋を伸ばした姿勢はいつもより男らしく見えてきてなんだかわけもなく照れてしまった。
桜を買うと言ってくれた時、真柴が自己紹介した時のことをよく覚えている。写真家として生計を立てていて、副業で画家もしていると。
ずっと気になっていた。真柴はどんな絵を描くのだろう。かわいいタッチなのか、写実的なのか。
その答えが今日、わかる。
そう思うと、モデルの仕事も精一杯頑張ろうと前向きな気持ちになれた。
「次、今度は伸びをするポーズだ」
「……わかった」
桜は上半身をぺたりとラグの上にくっつけてから、ぐーっと腰を天井に突き出す姿勢になった。黒猫らしいポーズを意識したのだが、大沼は喉を震わせて笑いながら鉛筆を走らせている。一方の真柴は一時停止したようにお地蔵さんのように動かなくなってしまった。
「真柴さん? なんか俺のポーズ変?」
不安になって問いかければ、真柴は曖昧に笑って
「大丈夫だ。続けてくれ」
と告げるだけ。桜は一瞬、不穏な影を感じたがあまり気にしすぎないようにしようと捉えて、そのまま1時間同じポーズを続けた。
「終わりだ」
「ふぅ」
約2時間、2つのポーズのデッサンが終わったようだ。桜はラグの上に寝転がり、手足をぐーっと伸ばした。
(なんとかできた……)
大沼が桜に缶のオレンジジュースを渡してくれる。それを受け取り、蓋を開けてぐびぐびと飲み始めた。真柴の様子を横目で伺えば、画材の片付けをしている後ろ姿が見えた。大きくて頼もしい背中に視線を奪われていると、大沼が
「早く着替えてこい」
と言って、リビングから追い出された。
着替え終わってリビングに戻ると、二人が桜を待ち受けていた。
「な、なんだよ」
畏まった姿に見慣れておらずそう聞けば、二人は静かに桜に向かって頭を下げてきた。
「なっ!?」
「今日は助かった。また頼むことがあるかもしれない」
まるで、桜のことを褒め称えるような空気に首の後ろが痒くなってきてその場でもじもじしてしまう。
「これくらいいいよ」
桜が呟けたのはそれぐらいだった。すると真柴が桜に向かってスケッチブックを見せてくれた。
「わ……」
そこには黒猫としてポーズを取る桜が描かれていた。鉛筆の陰影で絵が立体的に見える。
(こんな嬉しそうな顔してたんだ、俺)
むふふ、と少しはにかむ表情を浮かべる桜をカメラのシャッターを切るように切り取り描いてくれたようだ。香箱座りも、伸びのポーズも本物の黒猫みたいだ。
「すごい。上手い……」
他に褒め言葉が浮かばずに告げれば、真柴は少し照れたように首の後ろをかいていた。せっかくだからと、桜は大沼のスケッチブックも覗くことにした。
「わ。真柴さんの絵のタッチと全然違う……」
真柴の絵は少しキャッチーさというのか、子どもでも伝わるような可愛らしい黒猫だったが、大沼の絵は大人向けの写実的な絵だった。
「当たり前だ。俺のはリアルに重きを置いている」
「そういえば、大沼は美大生の頃からリアルな方向性で描いていたな」
二人の掛け合いを聞きながら、桜は4枚の絵を交互にしげしげと見つめた。描き手によって、同じモデルでもこんなふうに違う黒猫みたいに描けることに驚き、二人の芸術家気質に圧倒されていた。
「じゃあ、俺たちはこれで」
気づけば大沼の部屋にやってきてから、3時間が経過していた。空はオレンジ色になり、窓から夕陽が差し込んでいる。11月末だと、日が落ちるのが早く感じる。
「じゃあな」
「……うん」
大沼の気さくな態度に、やはり真柴がいるといないとでは桜への対応に天と地ほどの落差があることを思い知った日でもあった。
真柴と桜はそのまま自宅に戻り、ハーブティーを片手に少し休むことにした。
ハーブティーを飲むとあの日真柴が桜を帯人と勘違いしてキスしてきたことを思い出して、胸が甘く痛む。けれど、美味しいしほっとリラックスできるのは確かだ。
それにハーブティーを淹れる時の真柴の表情は穏やかで、綺麗だからずっと見つめていたくなるのだ。
「急に俺がデッサンに参加したから、緊張して疲れてないか?」
核心をつかれて、桜は飲んでいたハーブティーをごきゅ、と喉奥まで飲み干してからむせた。ごほごほと咳き込んでいると、すぐさま背中をさすってくれる大きな手のひらに安心して身を任せる。
「大丈夫か?」
困り眉の真柴がなんだか面白くて、つい笑ってしまいそうになる。
「大丈夫。ちょっと緊張はしたけど……二人の絵が見られて楽しかった」
「そうか。それなら良かった」
満足そうな微笑みを浮かべる真柴を見たら、今日1日の疲れなんて飛んでいってしまいそうだった。
ベッドにもぐると、真柴が優しく桜の髪の毛を指で梳いてくれる。それが心地よくてうとうとし始めた時だった。
「桜は黒猫みたいだ」
「……そう?」
「普段はつんつんしてるけど、本当は甘えん坊なところとか」
「……う」
真柴に全てを見透かされているような気持ちになり、言葉に詰まる。それを感じ取った真柴がふは、と軽く息を吐くように笑って桜の腰に腕を回してきた。
「今日は疲れただろう。よく眠るんだよ」
「……うん。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
桜の眠気はマックスだったから、その隙を突かれたのかもしれない。
ふにゅ、と柔らかいものが目を伏せていた桜の唇に優しく重ねられた。それはぷにぷにしてて柔らかかった。そして、温かい何かがはむ、はむと桜の唇に優しく噛み付く。
意識朦朧とした中で、真柴に腰を抱かれていることだけは理解できたが、それ以上のことは頭が回らなかった。
優しくて甘い口付けは数度、軽く唇に吸い付いては離れてを名残惜しく繰り返しながら、終わった。後頭部を優しく手のひらで包まれている感覚に身体がほわほわと浮かぶような心地がした。そのくらい癒される感覚だった。
(ああ。この香り……同じだ。ハーブティーのすーすーするやつ)
そのまま寝息を立て始めた桜を真柴が見守っていたことなど知らずに、その温もりに抱かれて深い夢の世界へと旅立って行った。
「……好きだ」
眠り姫に囁く王子の甘い吐息と言葉はまだ誰にも気づかれない。
ともだちにシェアしよう!

