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第103話 幸せなひととき

「あー、すごい美味しかった……」  満腹になってご機嫌な桜を見守る真柴が静かに両手を合わせた。 「どれも美味かったな。ごちそうさまでした」  桜が不慣れにも関わらず、旅館のかしこまった空気に合わせて意識して正座していた足もいつのまにか崩れてしまっていた。胡座の姿勢のまま、少し張ったお腹を服の上から優しくさする。  花瓶を廊下に置きに腰を上げようとすると真柴に手で制される。 「ちょっと女将さんのところに用があるから、待っていてくれないか」 「わかりました」  軽やかな足取りで真柴は部屋を出ていった。ポツンと広い畳の上に残された桜は広い部屋の中を探検することにした。  廊下側とは反対側にある障子を開く。一番目を引いたのは竹柵だった。竹が隙間なく並んでいる。その前には黒く光る四角いプールのようなものが地面に埋め込まれていた。  夏用のプールかな?  こういった場所に不慣れな桜はそれが何かわからなかった。窓ガラス越しに冷気を感じて桜はあわてて障子を閉める。部屋の中に冷たい空気が入ってきたら、真柴の寝付きに影響するだろうと思って。  トイレの場所と洗面台の場所を確認すると、桜はこの部屋にないものに気づいた。  部屋用のお風呂ないのか? シャワーも。  今日はこの旅館に泊まるのだろうというのは予想できていた。それは嬉しくもあると同時にやはり恥ずかしさのぬぐえないものだった。  桜はクソ客に付けられた傷が治ったとはいえ縫われたところを他の宿泊客に見られたくなかった。だから部屋用のお風呂に入るつもりだったのだが、どうやらこの旅館には大風呂しかないらしい。 (仕方ない。せっかく素敵な旅館だしお風呂は大風呂で我慢しよう。真柴さんも一緒だからきっと大丈夫だろうし……)  そう思ったとたん、あれ? と桜は違和感を覚える。 (真柴さんと一緒にお風呂入るの初めてだ……。どうしようなんか緊張してきた)  以前真柴が熱を出したときはシャワーを浴びせたこともあるが、そのときは真柴の意識がなかった。心の準備をするために目を伏せて畳の上で正座して待つ。  そんなことをしているうちに障子が開く音が聞こえて桜ははっと後ろを振り向く。 「そんなとこに正座して、どうかしたのか?」  桜が思ったより真柴は早く帰ってきた。手に何かを持って。 「っ部屋を探検してた」  上擦った声で返事をする桜を真柴は特に訝しむ様子は無い。 「そうか。面白いものでも見つけたか?」 「面白いものっていうか……。こんな素敵な旅館に泊まったことないから、何が何だかわからない」  唇を尖らせて桜が白状すれば、真柴は持っていたものをこたつの上に置いた。白地に青色のものとピンク色のものがある。  桜は色鮮やかなそちらに目を奪われてしまい言葉を詰まらせる。 「ああ、これか。今、女将さんから借りてきたところだ」 「なんだ、これ?」  真柴はそれを広げた。桜の身体にあてるようにして見せてやる。 「浴衣だ。泊まり用の」 「……泊まり用」  桜はちょっと目を逸らした。 (やっぱり今日は泊まるんだ)  それを真柴の口から聞いて桜は胸を高鳴らせた。桜の顔がほころぶのを見て真柴はそっと微笑む。まるで白百合が風にそよぐように囁くように。 「泊まってくれるか?」 「うん」 「よかった。だめと言われたらどうしようかと、ずっと考えていたから」  そのあと真柴に痛いくらい抱きしめられた。真柴は愛情表現が素直でわかりやすい。一方桜はそういう扱いに慣れておらずどうしていいか反応に困ってしまう。  桜はちらりと時計に目をやる。ゆったりとした夕食だったから午後8時を過ぎていた。障子の隙間から見える窓の外は既に暗闇となっていて、満月が顔を出していた。

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