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第104話 名前を呼んで

「そろそろ歯を磨くか」 「あ、うん」  なにか重大なことでも口にするような雰囲気だったので、身構えていた桜はがたっと肩を落としそうになる。  なぜか真柴にエスコートされるように腕を引かれる。たった数メートルの距離なのにやけに長く感じた。  てきぱきとコップとアメニティの歯ブラシを用意すると、真柴は男二人には狭い洗面台に桜を招き歯磨きを始めた。さりげなく腰に手を当てられているのに気づき桜はどぎまぎとしてしまう。 「歯磨きが終わったらお腹の休憩だ」  あっというまに歯磨きを終えて真柴は洗面台を後にした。残された桜は急いで歯磨きをする。夜ご飯を食べ終わり歯磨きも終えて、あとはお風呂に入るだけ。そしてその後は……。  鏡に映った自分の顔は見たことないくらい真っ赤になっていた。いつも自分はこんなに顔を赤くしているのだろうか。  いちいち鏡で確認する時間もないから知らなくて当然だった。自分の頬が熟れた林檎のように真っ赤に膨れているのを見て桜は鏡から目を逸らした。 (うう、恥ずかしい。まるで俺が期待してるみたいな……)  このまま真柴のもとへ戻る訳にも行かなくなり、桜は冷水で熱い頬を冷やした。 「桜の浴衣はこれだ」  真柴は自分用に青い浴衣を脇にさして、桜にピンク色の浴衣を手渡す。  桜はおずおずとそれを受け取った。 「じゃあ行くか」 「うん」  真柴の後を着いていこうとして、あれ? と桜は違和感を覚える。  なんで廊下側に近づかないんだろう。  真柴はスッと廊下側とは反対側の障子を開けた。そして、カチリと手元のスイッチを押す。すると暗闇の中に鮮明な灯りが揺らめく。  桜が昼間探検していたときに見つけた謎のスペースがガラス越しに浮き上がった。  真柴は戸を開けるとすたすたと外に出て行ってしまい、桜だけおろおろとその様子を眺めていた。 「さ、寒い……」  外の冷気があたたかい部屋の中に入りこみ、桜は自身の両腕をつかんだ。  真柴は手馴れた手つきで四角いプールのようなところでなにかをいじっている。  じっと目を凝らしていると、息を吐いたときに出るような白いもやがもくもくと空に向かって立ちこめているのが見えた。 「クリスマスイブは都内とは言え夜は冷え込むな」  真柴は大げさに肩をすくめて桜の元までやってきた。 (やば、寒すぎる。死ぬ)  青ざめたような桜の顔を見た真柴は、すぐさま駆け寄ってきてくれる。 「桜、唇が紫色だ。はやくこたつに入ったほうがいい」  寒さでがたがたと震える桜を支えながら真柴はいったん戸を閉めた。部屋の中に入った冷気がスルスルと下の方へ抜けてゆく。 「あのさ、外で何してたの?」  こたつに入ってしばらくすると、震えが止まった。桜は正面で自分と同じようにこたつに入る真柴に問いかける。 (こたつ。ぬくぬくであったかい。家にもひとつ欲しいな。今度、真柴さんにおねだりしてみようかな……)  少しわがままなことを考えながら聞けば、真柴は静かに口を開いた。いつもより厳かな口ぶりだ。 「ああ。あれは、お湯をためていたんだ」 「……お湯? あれってプールじゃないのか?」 「……」 (あれ、俺変なこと聞いちゃったかな?)  無表情のまますっかり黙ってしまった真柴を覗き込むと、次の瞬間彼は声を上げて笑いだしてしまった。 (こんなに笑った真柴の顔見るの、初めてだ)  観察するようにまじまじと見つめていると、真柴は目尻から涙が滲むくらいツボに入ってしまったようで、なかなか息が整わなかった。  約1分後。 「悪かった。そんな不安そうな顔をするな」  一人状況が飲み込めない桜は、無意識に不安げな表情をしていたのだろう。 「あれは、露天風呂というお風呂だ」 「ろてんぶろ?」  桜は初めて聞くワードに耳をそばだてた。 「そう。外にあるお風呂のこと」 「じゃあ大浴場には行かないんですか?」  真柴は少しだけ苦笑いをする。 「ここの旅館には大浴場はないそうだ。プライベートホテルのような場所らしい」 「そうなんだ」  桜は自分の泊まっているこの旅館がどれだけ高級旅館なのかを今一度思い知らされた。 「お湯がたまったら入ろう」  桜は真柴の話にこくりと頷く。  桜は内心ほっとしていた。これで他人に傷の残っている裸体を見られずにすむ。  こわばっていた身体が少しずつほぐれていく。  こたつの気持ちのよいぬくぬくしたあたたかさに身をゆだねていると、いつのまにか桜の隣に真柴がいた。 「お湯がたまったようだ。行こう」 「うん!」  まるで子どもをあやすような優しい笑みを浮かべて、真柴はそっと桜の手をとる。桜もつられて真柴の手をぎゅっと握った。するとそれに応えるように真柴の指がぎゅっぎゅっと桜の手を握りしめる。 「ふふっ」 「どうかしたか? えらく機嫌が良いようだ」  真柴が不思議そうな顔を浮かべた。桜ははにかみながら下を向く。 「なんかこれ、恋人同士みたいでいいなって」 「……」  桜は「しまった!」 とつい零れた本音を喉の奥に戻したくなった。 (やばいやばいやばい。今の、真柴さんに聞こえちゃったよな? どうしよう、俺。変なこと口にして呆れられたら──) 「まっ、真柴さん、あの、今のはえっと、違くてっ……」  桜は身振り手振りを加えて首を横に振る。一時停止したように無表情だった真柴がついに口を開いた。桜はその綺麗な唇からどんな言葉が出てくるのかとひやひやしながら待つ。  しかし返ってきた言葉は、あまりにも優しい言葉だった。 「桜は天然の無自覚キラーだな」 (天然の無自覚キラー? どういう意味だ? 真柴さんの声、とっても柔らかい。怒ってはないみたいだけど……)  聞き慣れない単語を耳にして桜の思考はいったんストップした。けれど、次の瞬間には真柴に抱き寄せられていた。いつも添い寝する時より強く、確かな腕の中に桜はいた。 「たまには俺の顔も立たせてくれ。これじゃあ全然主人として振る舞えていない」 「あっ、え?」  真柴がふわりと笑う。その笑顔には人を癒す力があると思う。この爽やかな笑顔に何度安心してきただろう。  自分が抱き枕として癒す側なのに、気づけば主人の真柴に癒されることが多かった。それが不思議でたまらなかった。こんな気持ちになるのは初めてだった。 「桜」  ごく、と生唾を飲み込む自分の音だけが広い和室に響いた。何か重要なことを言われる雰囲気を感じ取ったから。胸が痛いくらい激しく鳴り響く。真柴の表情はいたって真剣そのもの。弓なりに引き上げられた薄くて形のいい唇。綺麗な瞳。その瞳の中に映ることができるなら、何でもしたくなるミステリアスな雰囲気は出会った頃から変わらないけれど。  たったひとつ。桜にだけ見せてくれる微笑が、大好きだった。 「桜。好きだ」 「っ!」  真柴の一言に全身が雷に打たれたように甘く痺れた。その痺れは心臓の鼓動をいっそう速くして、次いで頭の中を揺らした。まるで、胎児の頃に母親のお腹の中で揺らされた時のような安心感。 「……」 「あっ……う……」  真柴がこちらをじっと見据えて返事を待っているようだった。桜は上手く喋れないと自覚し、真柴の目を見て返事の代わりにぎゅっと腕の中に飛び込んだ。突然のあまりの勢いに、真柴が畳の上に寝転がる形になった。押し倒してしまったことに申し訳なくなって立ち上がろうとすると、その腕を掴まれた。 「元気のいい返事でたいへんよろしい」  くすくすと笑いながら、真柴が桜の身体を抱き寄せる。 「ごめんっ。嬉しすぎて、声……出なかったからハグしたら俺の気持ち伝わるかなって思って……」 「ああ。たしかに伝わった。桜の愛は文字通り重いみたいだ」 「お、重いって! 俺、ダイエット頑張ってるのに……!」 「すまない。そういう体重の話じゃなくてだな……」  最後には2人して目を合わせて笑ってしまった。こんなやりとりはいつものことで、告白してもそれが崩れることがなくてひどく安心したから。

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