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第5話

 二日後。予定を空けていたアイリスは、ヒートの落ち着いてきたトウイと共に街の図書館に向かっていた。  彼との同居が始まって六日目になる。随分と顔色のよくなったトウイは、アイリスの留守中に家事をこなすようになっていた。帰宅するたびに部屋は綺麗に片付き、洗濯物が畳まれている。やらなくていいと言ったのに、と伝えたが、じっとしているのにも飽きてしまったらしい。「町には親がいない奴らも多かったから。家事とか、俺が色々手伝ってたんだ」というトウイは、案外まめな性格らしかった。終いには、靴下は裏返して洗濯機に入れてくれとまで言われるようになり、アイリスは苦笑した。  ただしそんなトウイも料理だけは駄目らしい。これまでどんな失敗をしたのかはわからないが、一切キッチンに近寄ろうとしない。その代わり、出されたものは何でも美味しそうに食べた。その様子がうれしくて、アイリスも普段はしない凝った料理まで作るようになってしまった。帰宅したときに誰かがいる安心は初めての感覚で、自分が浮かれているのがわかる。それが、ヒートに当てられたからなのかは、まだ判断がつかなかった。 「本当にもう寝てなくていいのか?」 「いいって言ってるだろ。ほとんど治ってる。場所だけ教えてくれれば、付き添わなくたっていいんだぞ」 「馬鹿、一人にはできないよ。今日もうちに連れて帰るからな」 「はいはい」  近所に図書館があると知ったトウイは、アイリスのことを押し退けてでも向かおうとした。まだ出掛けるのは控えた方がいいんじゃないかと思ったが、その執念たるや凄まじく、アイリスの方が折れるしかなかったのだ。  ジャケット姿の二人は、五日前の出会いの日と比べると薄暗い曇天の元、石畳の街を歩いていた。  まだ風が冷たい春先。トウイの宿泊が決まった時に買い与えたシンプルな白シャツとスラックスに合うように、アイリスはネイビーのジャケットを貸した。しかし明らかにサイズが合っていない。恐らく十センチ以上身長差があるため、トウイにとってはオーバーサイズだった。 「トウイ、それ」 「いい。何も言うな」 「サイズが」 「アルファ様の身長自慢か!?」 「アルファは関係ないだろう。身長が決まるのは第一の性や両親の遺伝なのだから、トウイの第二の性が何であれトウイが小柄なのは」 「追い打ちをかけるな天然野郎!」  想像以上のサイズの差に臍を曲げていたらしいトウイだったが、最後は袖を通して出掛けることを承諾した。ピークは去ったとはいえ、ヒート中で体温が不安定な状態の場合、上着がある方が良いらしい。無理を通して出掛けようとしているのは自分であるという引け目もあったのかもしれない。 「トウイ、君、普段はどうしていたんだ。ヒート中もそんなに出掛けていたのか」 「どうって。そもそもバランの方に図書館は無いからな。こっちまで出てくるわけにもいかないし、天井を眺めるしかすることはなかった」 「……オメガでも安心して利用できる娯楽施設や商業施設か。覚えておこう」  神妙に頷くアイリスを、トウイは笑った。 「いちいち俺の話を真に受けるな」 「でも、大事なことだろう」 「――本当にお前は、アルファらしいんだからそうじゃないんだか」  平日の図書館は幸いにも人がまばらだった。雲間から光の差し込む窓の外、緑溢れる庭では、老婦人と孫と思しき少女が散歩している姿が見えた。黴臭さの混じる古い紙の静かな匂いが鼻をつく。書架の間を通り抜けて、二人は周囲から離れた隅にある、小さなテーブルについた。 「ここなら大丈夫だろうが、もし体調が悪くなったら」  トウイは既にアイリスの話を聞いていなかった。切れ長の目は初めてみるほど丸く開かれて、懸命に背表紙を追っている。館内にいくつか設置されている検索機を使えば目当ての品を探すこともできるし、カウンターでここにない本を取り出してもらうこともできると教えると、トウイは一層目を輝かせた。 「あぁ、で、さっき何か言ったか?」 「いや、何でもないよ。俺もここで仕事をするから。好きに過ごしてくれ」  野に放たれた犬のように、トウイは書架の間を動き回り始めた。その姿を見て、つい唇が緩む。心のままに振る舞うトウイがほほえましいと感じた。だからこそ、自分は自分に課した使命を果たさなければならない。アイリスはノートパソコンを開き、仕事の続きに取り掛かった。  閉館の鐘が鳴り、アイリスは視線を上げた。気づけば室内灯が点いており、窓の外は茜色に浸されている。随分と集中していたらしい。声を掛けようと目の前のトウイに視線を戻したが、彼は活字を追うことに没頭していた。伏せられた瞼を縁取る睫毛が、淡い影を落としている。普段の口の悪さからは考えられない、静謐な水底のような男だと、トウイは思う。初めて出会って目が離せなくなったのも、深海のような目に囚われたからだった。 「トウイ」  しばし見惚れていたことに気付き我に返ったアイリスは、閉館を知らせるように声を掛けた。顔を上げたトウイは、自分が時を忘れていたことを少し恥じ入るように周囲を見渡した。 「――あ……もうこんな時間か」 「それ借りてかえろう。貸して」 「うん」  うん。その気の抜けたような素直な返事に、なぜかひどく心打たれる。そんな声も出すのか。  カウンターで手続きをした本をトウイに手渡すとき、それが古典文学に分類されるような小説だということに気が付いた。。これまでの口ぶりや家での様子だと、トウイが主に読んでいたのは歴史書や実用書だ。何気なく「物語も読むんだな」と言ったら、トウイはなぜか目を逸らした。 「――これは、下巻だ。蔵書には上巻しかなかったから、気になっていた」 「そうか。良かったな、見つかって」 「あぁ。親父は、物語を読めばどこへでもいける、豊かになれると言っていた。俺は――現実に戻ったときとの差が、あまり好きじゃなかったけど」  トウイの視線は、遠い過去を見つめているようだった。  図書館を出たら、既に日は沈みかけていた。春の夕暮れは肌寒い。トウイはオーバーサイズのジャケットの前をぎゅっと引き、寒さから身を守るようにボタンをかけた。 「でも、お前と出会って、なぜか読もうという気になったんだ」  その言葉に、心臓が震える。気づいたらアイリスは、その華奢で細い肩を掴んでいた。こちらを振り向かせるような動きに、トウイは抗わない。ただ驚いたような丸い目が、何か切実なものに突き動かされたようなアイリスを映す。 「――ッ、」  体が近づき、顔を寄せ合う。互いの体温に、においに満たされる。眩暈がするような甘い衝動に、唇同士が引き寄せられた時―― 「っ、す、すまない。電話だ」  ポケットの中で電話が震えた。なんとなく気まずくなり、お互い弾けるように体を離す。まだ体温の余韻が残っているのを感じながらも、アイリスは着信画面を見て意識を切り替えた。リリーからだ。 「――私だ。どうした?」 『ッ、アイリスさん! よかった、繋がって』  その声は動顛したように上擦っている。冷静なリリーの常ならない様子に、何かよくないことがあったことを察した。 「何があった」 『今から事務所に来られますか!?』  直接説明をするからすぐに来てほしいという声に急き立てられ、アイリスはタクシーを探し出した。 「何かあったのか」 「仕事でトラブルが起きたらしい」 「あんたも大変だな。俺は、じゃあ先に戻って」 「いい、トウイも来い」 「なっ――俺は必要ないだろう。邪魔はしたくない」 「君を一人で帰らせる方が心配だ」 「あのな、前から言おうと思っていたが俺は子どもじゃない。お前と同い年だ!」 「元気そうだな。一緒にきても問題ないだろ」  抗議を続けるトウイを黙らせるように顔を近づける。先程の甘やかなものとは違う説得だった。 「君は我々の活動に大きな示唆をくれた。皆にも紹介させてほしいんだ」  タイミングよく、前の道路にタクシーが止まった。返事を聞かないまま車に押し込めると、トウイは呆れたように「本当に勝手だな、アルファ様は」とこぼす。だけど本気で嫌がっている様子はない。そのことに安心し、アイリスは再びリーダーとしての顔に戻った。

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