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第6話

 どうして勘違いしたのだろう。傍にいていいなんて。  節くれだった心に踏み込まれる感覚は決して不快なものではなかった。力ずくで荒れた地が踏み固められいくように、心はむしろ平穏になった。必要とされている、求められていると思えることは、地から新しい命が芽吹くような勇気と温かさをくれた。それを思い出せたのは、父親が死んで以来だった。  そんなアイリスの行動はすべて、アルファの特性が生じさせるものだということなんて知っていたはずなのに。どうして対等な存在になれるだなんて思ってしまったんだろう。  刺すような夜風にジャケットの前を合わせた時に、服を借りたままだということにトウイは気がついた。短い間だが、共に暮らした男の匂いが微かに香る。図書館で借りた文庫本もポケットに入れたままだ。  ――今度、返しにこよう。  本当は今すぐ行くべきだということはわかっていた。だけど今、顔を合わせるわけにはいかない。顔を見て、いつもの強引な――だけど温かさに満ちた声を聞いたら、許されたような気になってしまう。あの部屋で飲んだ紅茶や料理を思い出すと、脚が止まりそうになった。だけど、駄目だ。これ以上迷惑は掛けられない。  幻のような記憶を振り切って、トウイは夜闇に駆け出した。 ※  今から数時間前のこと。  電話で呼び出されたアイリスと共に、トウイは事務所の入口を潜った。小さいが小綺麗なビルの二階の一角に、事務所は構えられていた。入り口にはアルミ板をくりぬいたような装飾で、『オメガ人権向上NPO・イコールフット』と書かれている。支援される対象は自分たちなのだと思うと、トウイはなんだか他人事のような不思議な気持ちになった。 「リリー、何があった」 「アイリスさん!」  事務所に入るなり、蒼褪めた顔をした女性が飛んできた。背が高く、トウイと同じくらいかそれ以上だった。その視線がこちらに向けられる。何か納得したように微かに目が丸くなった。 「あなたが例の――」 「そうだ、彼がトウイだ。一緒にいたから、君たちに紹介しようと思ってきてもらった。それで、何があった?」  悠長に挨拶している場合ではないらしい。トウイとしても交流するつもりで来たわけではないから、微かに頷く程度の会釈で済ませた。彼女も同じように会釈したあと、すぐにその顔が本題を切り出すように緊張で硬くなる。しかし予想外だったのは、その視線がアイリスだけではなくトウイにも向けられたことだ。 「単刀直入に言います。お二人のことが、ゴシップ誌に抜かれました」 「は!?」 「一体どういう意味だ。書かれるようなことなど」 「先日、街頭活動の最中にアイリスさんが彼を助けましたよね。あれが、ヒートに当てられたアイリスさんがオメガを誘拐したことになっているんです」  信じがたいことを告げられ、二人は同時に絶句した。アイリスは落ち着こうとしているものの、動揺を隠せていない。先に感情を露わにしたのはトウイの方だった。 「ふざけるな! 俺はこいつに助けられただけだ! 誰がそんなことを――」 「君がそう思っていても、誰もその真実を知らない」  リリーは片手で制し、デスクの上にモノクロ印刷された紙を広げた。  そこに書かれていたのは、扇情的で醜悪な言葉の数々だった。オメガ人権向上運動の活動家が白昼で起こした事件。攫われたオメガはヒート中で、アイリスはそのヒートにあてられたことになっていた。抑制剤の使用を推奨しておきながら、自身が使用していなかったのではないかという指摘もある。更におぞましいことに、その攫われたオメガは合意なく番にさせられて、飼い殺し状態であるといったことまで書かれていた。 「どうして、こんなこと――」  怒りと混乱で目の前が暗くなる。下劣な言葉を見ていると吐き気まで感じて、トウイは激昂する気力を失い言葉が出てこない。一方アイリスは、怒りを押し込めるように深呼吸をして記事のコピーを手に取った。 「リリー。これはいつ発売だ? なぜこれを知った?」 「出版社内のリークです。ここは以前アイリスさんが掲載されたハーバー通信の系列ですから。味方になってくれる記者や編集者の方がいたのでしょう」 「あそこなら、第一出版部のリーダーが懇意にしてくれている。彼に相談してみよう。これの発売予定は?」 「三日後だそうです。明日には印刷されます」 「すぐに行こう、トウイ」  名前を呼ばれて、うまく反応できなかった。遅れて顔を上げたトウイを見据えたアイリスは「行くぞ」とまた強引な、しかし変わらない調子で言う。 「アイリスさんっ、彼を連れていくんですか!? まずいですよ、堂々と現れたら証明しているようなものです!」 「違う。堂々としているから、これは間違いだと正せる。それにトウイにも証言してもらえれば心強い」  その時、リリーの探るような視線が刺さった。わかっている。結局オメガの発言力などたかが知れている。むしろこうした場では不利に働くことさえあるだろう。それは誰より、オメガとして生きてきたトウイが一番よくわかっていた。 「いい。俺は帰る」 「帰さない」 「なんで。オメガなんて連れて行ったら」 「そんな言い方はやめろ! それを仕方ないと思っていたら、何も変わらない。言っただろ、俺たちなら世界を変えられるって」  今は逃げてはいけない時だ――力強いアイリスの言葉と同時に手首を掴まれる。リリーの「タクシー来ました、急いで! 先方には連絡を入れておきます!」という声が飛ぶ。 「とにかく出よう」 「っ、おい……!」  腕を引かれるがまま、トウイは濁流の中に放り込まれるようにアイリスに連れ出された。

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