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第7話

「――大変申し訳ないけど、私にはどうすることもできない」  しかしアイリスの読みは外れた。  二人の突然の訪問を快く受け入れてくれた男――第一出版部編集長のベンは、事情を聞くなり顔を曇らせた。有能な人々が集まる出版社で一つの部のリーダーに上り詰めたこの男もまたアルファだろう。二人よりも一周り程年上のように見えたが、経験が自信に変わり、もっとも活力が漲っている年代だ。そのはずの彼の苦々しい返事に、アイリスは引き下がった。 「それは、チームが違うから権限がないということですか」 「うん。我々のチームは社会への寄与を目的としたビジネス誌が専門だ。だから君のことは応援していくし、これからも活躍を追わせてほしい。だけど、この雑誌が出ているのは、民衆の下世話な娯楽性を追求するチーム。社会的な意義はともかく、金にはなる。だから同じ出版社のなかに、まったく違うチームが存在しているんだ」 「お立場はわかります、しかし――」  話を遮るように会議室のドアが開いた。明るい短髪の男が、その健康的な雰囲気に似合わない焦燥を浮かべて飛び込んできた。六日前にも顔を合わせた男――記者のマルコだ。 「アイリスさんっ!」 「おい、来客中に――」 「編集長、すみません。事情を知って、黙ってられなくて」 「マルコ、どうしたんだ。この件について何か知ってるのか」 「アイリスさん、すみません! この記事のこと、俺のせいです」  その言葉に全員が息を呑む。飛び出しかけたトウイの腕をアイリスが掴んで引き戻し、「聞こう」と諫めた。。 「どういう意味だ?」 「はい……正確にいえば――この日に新人のイワンを紹介したのを覚えていますか? あいつが出どころでした」 「彼が――」  アイリスとしては、あの直後に色々なことが起こりすぎて失念していたというのが正直なところだ。マルコに対しても話を切り上げたまま、その後は連絡を取れていなかった。 「でもマルコは彼を信頼したから連れてきたんだろ。それがどうして」 「そう、だったんですけど」  アルバイトとして出版社に入ったその男は、何かネタを掴めば社員として取り立ててもらえると考えた。だから、あのような扇情的な記事を書き、ゴシップ誌のチームに自ら持ち込んだ、というのが事の真相らしい。こうした事態になることを予測していたのか、その男は遠方取材を入れて社を離れ、今は電話も繋がらないらしい。 「――俺、そんなこと全然知らなくて。地味な奴だけど正社員になりたいって頑張ってくれてたから。勉強させてやりたいって思って」 「いい、わかったよ。マルコ、君が責任を感じることじゃない」 「本当にすみません、アイリスさん――それから、君も」  大きな体を縮めて今にも泣きだしそうなマルコは、二人に深々と頭を下げた。君は下がっていいから、というベンの言葉と共に、彼は去っていった。 「おい、やっぱり今からでもそいつ探して引っ張ってきて取り消してもらうってわけにはいかねぇのか」 「トウイ、それは」 「それは難しいが、一つ方法を思いついた」  ベンの言葉に、アイリスがハッとしたように目を見開く。 「わかっただろ。君の父に頼んで」 「嫌です!」  間髪入れずに否定の言葉を発したアイリスを、トウイは驚きの目で見つめた。マイペースでズレたところのある男だとは思っていたが、それは私生活だけの話だ。普段のアイリスがこんな子どもじみたことを言うとは思えない。しかしベンはその反応を予想していたように「そうだろうね」と頷いた。 「だけど、他にどうしようもないこともわかってるんじゃないのか」  俯くアイリスの握りしめた手は震えていた。トウイには話が見えない。しかし思い出すことがあった。彼の部屋に招かれて、夕食を共に囲んだ時、家族のことを聞かれた。あれはトウイへの興味と同時に、自分自身の意識の表れだったのではないか。母親のことを聞いた時の、「もうあまり会っていないけどな」と零した様子が蘇る。あのときの声には、リーダーとして華やかに生きているはずの男の孤独が滲んでいるように聞こえた。 「おいアイリス、お前」 「――少し外す」  アイリスはトウイの顔を見ないまま、切迫した様子で会議室を出て行った。声を掛ける間もない。後には、沈黙だけが残った。 「君、例のオメガの子だろ。アイリスの家族のことは」 「聞いてない」 「きっと君には話してくれるんじゃないかな。戻ってきたら彼と話を」 「――いや、俺はもう行く」  ここに来る間もずっと考えていたことだった。こんな事態になったのは、トウイがアイリスに関わってしまったからだ。アイリスが冷静なうちは、まだ自責の念に耐えていられた。だけど、今の苦渋に満ちた表情。トウイが聞こうともしていなかった家族のこと。知らないアイリスの顔を見て、嫌というほど思い知った。  俺は、あいつのそばにいていい存在じゃない。  何を思い上がっていたのだろう。あいつに求められるから、こんな自分にも価値があると思った。必要とされていることがうれしかった。だけど結局何も残せていない。それどころかこんな事態を招いてしまった。せめて支えられる存在になれたらよかったのに、家族のことも、彼自身のことも何も知らない。  多分アイリスにそう伝えたら、俺が強引に君を巻き込んだからだと言うだろう。責任感の強いアイリスは、トウイのせいにすることなど絶対にしない。だからこそ辛かった。 「行くってどこに。アイリスと暮らす部屋――って様子じゃないね」 「当たり前だ。一緒にいてもあいつの迷惑になる。俺ができることはない」 「……そうかな」  ベンは引き止めようとしてくれているのか。しかし応えるつもりはない。背を向けると、再び声が掛かった。 「君はこれからどうする」 「どうって。元の生活に戻るだけだ」 「それでは、アイリスの望みは叶わないな」 「知るか。俺には関係ないし、協力する筋合いもないだろ」  しかしなおもベンは食い下がった。口調は変わらず穏やかなままなのに、否応なく聞かせられる引力のようなものがある。トウイはそのとき、この男もまたアイリスの考えに賛同している者なのだということに気付いた。 「アイリスは言っていたよ、差別の解消にはマジョリティ側が変わることが一番の近道だと。私もそう思う。だけど同時に、当事者たちにも変わりたいという意志が求められるんだ。そういう意志を削いできたのはマジョリティ側だから、酷なことを言っていると思うけどね」  何かが変わるかもしれないと思った。力強く未来を示すアイリスといれば、新しい世界が見えるのではないかと。 「俺は――」  ただそうして、ついていけばいいと思ってしまった。変化に直面する勇気も、痛みを堪える覚悟も無かった。そう自覚したからこそ、トウイの決断は変わらなかった。 「――あいつに伝えてください、世話になったと」  部屋を辞して周囲を窺うと、灯りの消えた会議室の奥で電話をするアイリスの後ろ姿が見えた。気付かれないように通り過ぎたあと、振り返りたくなる衝動を堪えたトウイは、すべてを振り切るように夜の街に駆け出した。

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