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第8話

 淡いハーブティーの香りに満たされた部屋で、アイリスは新聞に目を通しながらテレビを点けた。朝はあまり食べない方だが、今日は気まぐれで食パンを買った。トースターからは香ばしい匂いが漂い始めている。  あれから一カ月。いつもと同じ日常が戻り始めただけだった。アイリスももう大人だ。大人だから、誰かと一緒に暮らしていた痕跡が薄れていくことの寂しさを見ないでいることはできるし、すべては時間が押し流していくのだと知っている。だけど同時に、苦々しくざらついたものが喉元に込み上げてくるのも事実だった。  一カ月前、トウイはアイリスの前から姿を消した。  忌々しい最悪な気分で父親との電話を終えたアイリスが戻ったとき、ベンは既に仕事に戻っていたようでパソコンに向かっているところだった。 「トウイは――」  憔悴したようなアイリスを見るベンの目には、憐みのようなものが見えた。 「出て行った。君に伝言だよ、短い間だが今まで世話になったと」  ベンへの挨拶もそこそこに、アイリスはすぐに飛び出した。しかし夜の往来の中に、この数日ですっかり見慣れるようになった人影を見出すことができない。  帰るとしたらバランだろう。そう当たりをつけて、大通りや路地を必死に走った。名前を叫んで回りたかったが、こんな騒動があった後では目立つわけにはいかない。歯を食いしばるほど、内に溜まったものが溢れてきそうだった。それは悔恨と屈辱に他ならない。  どうして自分は、勘違いをしてしまったのだろう。  トウイと一緒に世界を変える。そう本気で信じていたし、トウイも自分を信じてくれていると思っていた。図書館を出た時に、触れた体と近づいた体温を思い出す。惹かれ合い、境界線を越えることを許されたと思った。だけど結果はこのざまだ。きっとこんなことになり、トウイはもう嫌気が差したのだろう。あの意志の強い美しい瞳に、応える力を持っていない。  アイリスは追うのをやめて立ち止まった。往来を過行く人と肩がぶつかり舌打ちをされる。冷たい風が肌を刺して、ジャケットの前を合わせたとき。サイズの合わない服を貸したままだったことを思い出した。せめてこの寒さに凍えていなければいい。そう願うことしかできなかった。  結局あの記事が報道されることはなく、アイリスの日常は変わっていない。  ハーブティーのカップを傾けつつ、届いた郵便物を整理していると、目に留まる封筒があった。ハーバー通信の第一編集部からだ。サイズや重さから、冊子が入っていることがわかる。献本してもらうようなものはあっただろうか。ペーパーナイフで封を切り、中身を取り出す。マルコもライターとして関わっている、以前アイリスが取材してもらったことのある雑誌だ。ぱらぱらと中を捲っている手が、ある一点で止まった。思わずカップを取り落としそうになる。先日のアイリスたちの街頭活動を取材した記事。見開き二ページのうち、一ページに大きく掲載されていたのは、まぎれもなくトウイの姿だった。 「なんだこれ、いつの間にこんな――」  アイリスの独り言に応えるように、部屋のチャイムが鳴った。何かの予感に動かされ、弾けるように玄関を開ける。その先には、溌剌と笑うマルコの姿があった。 「お久しぶりです、アイリスさん。献本、届いた頃じゃないかなと思って」 「今ちょうど見てたところだけど、これは――」 「トウイさんにインタビューに協力してもらったんですよ。ただ活動のレポートをするだけじゃ、普通すぎるでしょう。当事者の声っていうのはやっぱりインパクトありますからね!」  それからマルコは表情を戻した。短髪の間に覗く凛々しい眉が力強く上がった。 「正しいことを報道したかったんですよ。アイリスさんには本当に申し訳ないことをしました。あの記事が出なかったのは幸いでしたが、今後も活動を妨害する敵は現れるでしょう。我々のような媒体が、正しく情報を届ける意義はそこにあります。だから、御本人にもインタビューを受けてもらったんです――ね、トウイさん」  マルコが背後を振り返る。大きな背中に隠れていた人影が顔を出した。 「トウイ!」  一カ月ぶりに見るトウイは、様々な感情を押し殺そうとするような仏頂面で、呆気に取られたアイリスをちらりと見てから目を逸らした。 「……本当に、あのまま消えるつもりだったんだ。だけどこいつに引っ張られて。本もジャケットも、返せてなかったしな」 「――と、いうわけなんで。俺はこの辺で! またご連絡します!」  陽気に笑ったマルコは、用事は済んだとばかりに止める間もなく去っていった。後には、所在なげなトウイだけが残された。白シャツ一枚にスラックスというシンプルな出で立ちだが、こざっぱりしている。アイリスの視線に気づいたトウイは、手元の紙袋を「これ」と押し付けてきた。 「返すもの、中に入ってる。クリーニングには出せてない、悪いけど。本の返却期限は」 「トウイ」  早口で捲くし立てるトウイの腕を掴む。言葉は止んだが、抗わなかった。 「入って。話そう」

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