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第9話
部屋に招き入れるなり、トウイは鼻をすんと鳴らした。そういえば初めて会った時に、ハーブティーの香りに驚いていたことを思い出す。でも結構気に入ったと言っていたはずだ。
「ちょうど淹れたところだから。座っててくれ」
「アイリス、俺は」
「いいから。逃げるなよ」
半ば無理矢理ソファに座らせると、トウイは大人しくなった。もしかしたら、あの日勝手に姿を消した負い目があるのかもしれない。
紅茶と一緒に、貰い物のクッキーも添えて目の前に置く。しかしトウイは俯いたまま手を付けようとしなかった。
「今更話すことなんてねぇだろ」
「そうかもしれない。でも謝りたかった。私の勝手で、君を大変なことに巻き込んでしまったから」
結果的には事なきを得た。だけどトウイを傷付けてしまったことには違いない。
「大変なことって、何も起きてないだろ」
「だけど」
「どうやって止めた? あの時言っていた、お前の父って、どういうことだ」
ぶれない瞳にとらわれる。アイリスは目を逸らし、口を噤んでしまいたかった。しかし自分で逃げるなと言った手前、それはできない。
トウイはきっと、踏み込もうとしている。ひと月前、表面に触れ合うだけだった関係を超えて、その先へと。
「私は――アルファらしいリーダーなんかじゃないんだ、本当は」
蘇るのは、幼いころの記憶だった。蔑みと嘲り。酷い劣等感の中で育ったこと。
「私の父は、この国の議員なんだ。兄も私も、父の厳しい教育を受けながら育った」
父も兄も共にアルファだったが、兄弟の間には明白な差があった。兄がお前と同じ歳の時には――と何度言われたことだろう。学校の成績で、兄を超えられることは終ぞなく、落胆されるたびに家庭内の居場所は失われていった。
「それで、大学入学と同時に家を出た。こうした活動に興味を持ち始めたのもその頃だ。母だけは味方をしてくれたが、私にばかり構う母も肩身が狭い思いをしていたから。敢えて距離を取ったんだ」
アイリスの存在を、父は煙たがった。だから家を出て行くという決断には多いに賛成し、手切れ金かのような金を渡された。頼るのはこれで最後だろうと思っていたはずだった。
「ああいう記事が出回ったら、父にとって体裁が悪い。父は保守派で、私の活動を快く思っていないからな。雑誌の記事一つ消すくらいは簡単だった」
――出来損ないが。だから言っただろ、お前には無理だって。
電話口の声に忘れていた感情が蘇り、体が凍り付くのがわかった。何かを考えるよりも先に、ごめんなさいと謝っていた。ごめんなさい、次は頑張るから、許してください。ごめんなさい、父さん――
「私には力がない。正直、迷ってるんだ、このまま続けていていいのか。少なくとも君には迷惑を」
「それは違う」
強い力に引き寄せられ、上体がよろめいた。目の前には深海のような瞳。腕を固く掴まれている。ソファの上で圧し掛かるような体勢になり、アイリスは困惑した。
「あ……トウイ、ちょっと、近い……」
「わ、悪い。勢いを、つけすぎた……」
何となく居たたまれなさを感じ、体勢を整えながらも、二人の距離はあまり変わらなかった。トウイが真っ直ぐ向ける視線の熱も。
「俺が言いたかったのは二つだ。一つは、俺は迷惑だなんて思っていないってこと。それからもう一つ――アイリスは、無力なんかじゃない」
「トウイ……」
「お前の味方をしてくれる人は大勢いるだろ。イコールフットのメンバーも、編集部の人たちも。街頭活動も変わってきてるって言ってた。この雑誌だって多くの人に読まれる!」
その声は、初めて会った時を思わせた。現状への怒りをぶつけ、叛逆の意志に燃えていた男。今度は怒りではない。アイリスを立ち上がらせるためのエネルギーのように、その言霊は止まらない。
「アイリス、俺は今回のことでも、仕方ないと思おうとした。俺たちオメガが不当な扱いを受けるのは、慣れていることだから。オメガの俺がアルファのお前と対等になれるなんて、思い上がったからこんなことになったんだと。だけど――できなかった。諦められなかったんだ」
追ってきたマルコを、トウイは最初、すげなく追い返した。自分には何もできない、これ以上迷惑は掛けられないと。
「だけど、あいつに言われたんだ。変化の潮目にこそ障害はある、ここで諦めるなって。ベンにも同じようなことを言われた。みんな――お前の味方だ」
無理だ、無能だと言われ続けた。その思いを払拭したくて、自分のエゴのためにこの活動をしているのではないかと自分を疑うことも多かった。そんなアイリスの手を握るトウイの力は強くて熱い。心の内側にまで、その熱が伝わってゆく。
「ちゃんと俺の言葉で話して、変えなきゃいけない。そう思えたのは、お前のお陰だ。取材でもそう言って、ここに書いてある。諦めることに慣れていた俺が、ただ怒ることしかできなかった俺が、どうしたらいいかを考えられるようになったんだ」
今度は不意打ちじゃなかった。明確な意思を持って、肩に手を置かれる。自分より小柄なはずのトウイの腕が頼もしく思う。
「勝手に巻き込んだなんて言うな。俺はうれしかったんだ、何かが変わるかもしれないと期待するほどに」
抱き寄せられて、トウイの体温に包まれる。同じ思いと熱を持つ男の体温に。
「――ありがとう、アイリス」
静かな声が、心の深いところにまで染み渡った。夢の中で何度も聞いた罵声や嘲りよりもずっと小さいのに、どこまでも届くその声が、消えない傷と悔恨を癒していく。その瞬間、アイリスはトウイの背中に手を回した。
「好きだよ――トウイ」
「……ッ! あ、いや、ちがう。これ、は、そういう意味じゃ」
「俺はそういう意味だから、聞いてほしい」
身じろぎをして抵抗を示すトウイの項に指を沿わせてくすぐってやる。すると、おとがいを撫でられた猫のように体から力が抜けた。
「……アイリス、あんたがよくしてくれたことはわかっている。でもそれは同情とか、助ける存在としてだろう」
「確かに、ずっと迷っていたよ。これは第二の性がもたらした気の迷いなんじゃないかと。だけど、違う。俺が君を助けるだとか、庇護したいと思っているわけじゃない」
「それじゃあ」
「俺が救われたんだ、トウイに。それで、君に惚れてしまった」
それじゃあ駄目か? 耳元でそう囁く。しかしトウイは俯いたまま、呼吸を止めたように静かだった。
「……トウイ?」
しまった。熱に浮かされていた思考が冷静になる。今まで普通に接してきたせいで意識するのを忘れていたが、トウイはオメガだ。搾取される危険に晒されながら生きてきたのだから、突然こんなことをされたら怖いに決まっている。どうしてこんなことに気付かなかったのだろう。アイリスは青褪めて、弾けるように離れた。
「すまない! 君に許可なくこんなことをして。怖かったよな、どうかしてたんだ、俺――」
弁解の言葉は続かなかった。引き寄せられて、すべてを呑み込むように、口が塞がれる。柔らかい感触が離れると、目の前には、顔を真っ赤に染めたトウイ。
「……な、いま、キス――」
「~~~! 言うな! 変だったなら笑え! 初めてなんだよクソ!」
羞恥に耐えきれないとでもいうようにトウイは立ち上がる。逃げ出そうとする体を追って捕まえた。引き寄せると、腕の中にすっぽりと納まってしまう。耳元にちゅ、と音を立てて口づけると、熱くなった体がひくりと震えた。
「笑わない。初めてって本当? 嬉しいよ、俺は」
「――本当だ。危ない目に、遭ったこともあって。それで、こういうことは忌々しいって、避けてたから」
窺うようにトウイが振り返る。その困惑と羞恥に潤んだ目に見つめられたら、もう駄目だった。
「ぅ、ン……っ! ぁ――」
頬を包むように両手で掴んで上を向かせる。小さな唇に自分のものを重ねて、無防備に開いた口に舌を侵入させた。
「ん、ぅ、っふ……!」
奥に逃げようとする舌をとらえて、感触を覚えさせるように絡みつく。何とか受け入れようと苦し気に開いた口の端からは、溢れた唾液が筋を作った。
すべてを啜って呑み込むようにさらに深くまで入りこみ、上顎側を擦るように舌でなぞると、抱きしめた体が落ちかけた。脚に力が入っていない。その腰を支えて、先程のソファに寝かせてやる。ようやく口が離れた時、トウイは顔を真っ赤にしてアイリスを睨みつけていた。
「ッ、や、やりすぎだ、バカ……! 初めてだっつっただろ、少しは手加減しろっ……!」
「――でも、悪くなかったって顔してる」
「うるせえっ!」
投げ出された足で蹴られたが、可愛い抵抗だった。トウイの目の縁は熟れたように色づいて涙が溜まっている。白い肌は、桃色に染まる性質らしい。それがひどく扇情的だった。
「アルファ様は、随分と慣れてらっしゃるんだな」
「――別に、慣れている、というわけじゃない」
それは本当だった。学生時代は、このアルファという性と、どこから聞きつけてきたのか、議員の子というステータスに、性別問わず様々な人間が群がってきていた。その中で誠実な付き合いをしようと努めたこともある。だけど長続きした試しがない。
そんなことを今伝えるのは言い訳じみているだろうかと迷っていると、トウイはふはっ、と吐き出すように笑って「疑ってるわけじゃない、だろうなと思ったよ」と言った。
「だろうなって、それもそれで複雑だな」
「だってお前、天然だからなぁ。そのくせ強引。思ってたのと違うって、言われてきたんじゃないか」
「ウッ……トウイが俺をよく見てくれていることはわかったよ」
なおもおかしそうにくすくすと笑うトウイが愛おしい。髪から頬へ手を滑らせて撫でると、トウイは猫のように目を細めてうっとりと喉を鳴らした。
「……いい」
「え?」
「アイリスが望むなら、この続きをしても、いい」
羞恥に潤んだ目で見つめられて、腹の内からぶわりと熱いものが膨れ上がった。自分の鼓動が聞こえるほどに速い。どうしよう、これ以上はするつもりはなかった。怖がらせたくないし、無理をさせたくなかったから。
「俺に合わせて言ってくれているのか? だったら――」
「ッ、急にしおらしくなってんじゃねぇよ! さっきまでの勢いはどうした!」
「だけど、俺は」
「土壇場で日和ったか? それとも自信がないのか? アルファ様お得意の強引さはどうしたんだよ」
トウイの煽りが止まらない。この挑発に乗っていいのか困惑していると、ぐいっと胸倉を引かれて引き寄せられた。耳元に熱い吐息が掛かる。それは今までの勢いを忘れたようにか細く、甘かった。
「……俺に恥かかしてんじゃねぇよ。お前が逃げるなって言ったから、勇気出してんだ、バカ」
「でも」
「まだ言うかよ」
「違うんだ、一つだけ気になってることがあって」
少しだけ体を離し、鼻先が触れる距離で互いの顔を見る。切羽詰まった必死な顔。多分それは互いの瞳に映る自分も同じ。
「俺――まだ返事もらってない」
「は?」
「俺はトウイに好きって言った。トウイ、君は?」
アイリスの必死の問いに、目の前の顔が大いに歪む。それから「はぁ~~~~ッ!」と聞いたこともない程大きな溜息。
「出た天然」
「え!? 俺まずいこと言ったか!?」
「……いや、俺が悪かった。勝手にキスをして、返事した気になってたよ」
「トウイ、それじゃあ」
「――俺もお前が好きだ、アイリス」
熱い指先で頬を撫でられる。触れたところから肌がじんわりと甘い疼きを持った。その心地好さと、心の奥が溶けていくような幸福感。
返事を理解していなかったわけじゃない、俺は、トウイから好きという言葉をもらいたかったんだ――アイリスはそう自分の気持ちを理解した。
「だからこんな誘いをかけてる。わかったか?」
「――わかった。回りくどいことを言って悪かったな。ちゃんと応えるよ、俺も」
そう言って再び唇を落とす。甘い匂いに胸が満たされていく。これがオメガのフェロモンか。いや、今はヒートではないはずだ。だとしたらこの想いは、性に振り回されているだけのものじゃない。この性差があったから、トウイに出会えた。だけど惹かれたのは、彼が彼であったからだ。
「大事にする――つもりだが、正直俺も余裕がない。無理をさせていたらすぐに言ってくれ」
「お前にされることで、嫌なことなんてない」
「そ、そういうことを言うな! 俺を甘やかさないでくれ、トウイ……」
ギリギリの衝動と甘い焦燥に目が眩む。手放しそうになる理性を何とか手繰り寄せて、アイリスはトウイの服に手をかけた。
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