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第9話

 ふわりと体が浮く感覚に襲われ、エルは咄嗟にアザールの肩にしがみついた。  彼の腕の中はあたたかかった。  びくびくと体を強張らせながらも、エルは何もされないとわかると、少しだけ身を預ける。  彼の歩幅に合わせて揺れる体は、なんだか心地が良い。  案内されたのは食堂ではなく、窓辺に灯りのついた小さな部屋だった。  エルを緊張させないためか、人は居らず、けれど大きなテーブルにたくさんの料理が並んでいて、目を丸くする。  色とりどりの野菜や、香ばしく焼かれた肉の匂いが鼻をくすぐった。  アザールは椅子にエルを下ろすと、自らも隣に腰を下ろす。  視線をやれば、彼が皿を取って、パンをちぎり、スープをよそうのが見えた。 「食べろ」  そう短く言って、パンをエルの手にそっと握らせる。 「……」  目を丸くしたまま、エルは小さくパンをかじった。  口の中に、広がるやさしいパンの味。  ふわふわとしていて、ほんのり甘い。  スープをひと口飲めば、その瞬間、堪えていたものが一気にほどけていくのを感じた。  ぽろり、と涙がこぼれる。 「……泣くようなものではない」  困ったように言うアザールの声は、エルには意味がわからなかったが、とても優しく聞こえる。  エルは慌てて目元を拭うと、パンを一欠片、口に押し込んだ。  思っていたよりも大きかったようで、頬が膨らんでしまい、口元を手で抑える。  そんなエルをしばらく眺めていたアザールが、ふと小さく呟いた。 「……そういえば」  彼の指が、エルの前髪を軽く払った。 「名を、まだ聞いていなかったな」 「……」  パンを抱えたまま、エルは彼を見上げる。  問いかけるように、目を細めるアザール。 「俺は、アザール」  そう繰り返してから、エルの胸元に手を当てるようにした。 「お前は……?」  エルは彼のその手の動きと言葉を聞き、昔まだ両親がいた頃に呼ばれていた名前を、ぽつりと呟く。 「……エル」 「エル」  その名を口にした彼の声は、なぜかとても、やわらかかった。 「エルに、両親はいるのか?」 「……エル、りょ……?」 「……おとうさん、おかあさん」 「!」  聞き覚えのある単語。  遠い昔に使ったことのある言葉。  エルは意味を理解して、首を左右に振る。 「そうか……」  どこか寂しそうな表情をする彼。  エルは首を傾げ、もしかしてアザールもパンが食べたいのかと思い、彼の口元にパンを持っていく。 「ん、それはエルが食べるパンだ」 「……パン、エル?」 「ああ」    パンを指さして、自分を指すと、アザールは小さく頷いた。  エルはパンを返してもらい、ハムっと一口かじって、ふんわりと微笑む。 「美味しいか」 「……?」  エルはパンを抱えたまま、小さく首を傾げた。 「……いい。好きなだけ食べなさい」  言葉は分からなかった。  しかし、大きな手がエルの口元についていたパンくずを優しく拭ってくれる。  そんなことをされたのは初めてで、エルは驚きつつも、心がほんのりとあたたかくなるのを感じた。

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