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第10話

 ***  翌日から、アザールはエルに言葉を教え始めた。  幼児用の本を開き、絵と一緒に文字をなぞるように読み上げていく。  エルにとっては、どれも初めて見るものばかりだった。  赤いりんご、青い鳥、黄色い花。紙の上に描かれた絵なのに、まるで本物の宝物でも見るように目を輝かせた。  簡単な単語だったけれど、エルは何度もアザールの口の動きを真似し、言葉を繰り返す。  その小さな声を、アザールはじっと聞いて、根気よく頷いてみせた。  ときどき間違えて、りんごを「りん」と言ったり、鳥を「とりー」と伸ばしてしまったりする。  それでもアザールは笑わず、ゆっくりと正しい言い方を繰り返して聞かせた。  そしてある時、エルがはにかむように口を開いた。 「……アザール?」  不意に呼ばれた名に、アザールの手が止まる。 「もう一度」  人差し指が立てられ、意味を理解したエルは小さく頷き、今度は少し自信ありげに言った。 「アザール!」  その声を聞いた瞬間、アザールの口元にふっと笑みが浮かぶ。  それは、どんな報告よりも、どんな戦果よりも、彼にとって喜ばしいものだった。 「……よく言えたな」  ポン、とエルの頭を大きな手で優しく撫でると、エルはきょとんとしたあと、嬉しそうに目を細めた。  その頃、アザールの邸には獣王軍の副将カイランが訪れていた。   「申し訳ありません。アザール様は今、手が離せず……」 「……あの人間か」 「はい。エル様のお勉強をなさっております」 「チッ……」  カイランは舌打ちをしながら、無言で窓の外に目を向けた。  その視線は鋭く、侍従にも容赦なく向けられる。 「そんなに熱くなるほど、あの人間に何かがあるのか?」 「……」 「……はぁ。もういい。将軍に伝えておけ。仕事はちゃんとしろとな」  踵を返したカイランに、侍従は深く頭を下げる。  しかし、彼らも何もできないのだ。  今朝方、アザールが侍従全員に告げていたからである。  エルの勉強中には、誰も部屋に入れるな、と。  怖がりなエルを怯えさせて、学ぶことの楽しさを邪魔させたくなかった。  結果、カイランの訪問も伝えられることはない。 「エル、本、好き」 「そうか。そのうち、たくさん読めるようになるさ」 「アザール、好き?」 「!」  優しく教えてもらえているからか、エルは昨日よりは少しアザールに心を開いているようで、学んだばかりの言葉を使い会話を試みようとしている。  しかし、時折アザールが勘違いしそうなことを言うので、まだまだ伸びしろしかない。 「本が?」  抜けていた述語を教えてもらうと、エルは少し考える素振りをした後、もう一度挑戦した。 「……アザール、本、好き?」 「ああ。本は好きだ」 「!」  伝わったことが嬉しかったのか、えへへと笑うその顔が愛らしい。  だが、アザールは顔には出さなかった。  ただ、エルからは見えない場所で、尻尾がご機嫌に揺れていたのは、秘密である。

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