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第10話
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翌日から、アザールはエルに言葉を教え始めた。
幼児用の本を開き、絵と一緒に文字をなぞるように読み上げていく。
エルにとっては、どれも初めて見るものばかりだった。
赤いりんご、青い鳥、黄色い花。紙の上に描かれた絵なのに、まるで本物の宝物でも見るように目を輝かせた。
簡単な単語だったけれど、エルは何度もアザールの口の動きを真似し、言葉を繰り返す。
その小さな声を、アザールはじっと聞いて、根気よく頷いてみせた。
ときどき間違えて、りんごを「りん」と言ったり、鳥を「とりー」と伸ばしてしまったりする。
それでもアザールは笑わず、ゆっくりと正しい言い方を繰り返して聞かせた。
そしてある時、エルがはにかむように口を開いた。
「……アザール?」
不意に呼ばれた名に、アザールの手が止まる。
「もう一度」
人差し指が立てられ、意味を理解したエルは小さく頷き、今度は少し自信ありげに言った。
「アザール!」
その声を聞いた瞬間、アザールの口元にふっと笑みが浮かぶ。
それは、どんな報告よりも、どんな戦果よりも、彼にとって喜ばしいものだった。
「……よく言えたな」
ポン、とエルの頭を大きな手で優しく撫でると、エルはきょとんとしたあと、嬉しそうに目を細めた。
その頃、アザールの邸には獣王軍の副将カイランが訪れていた。
「申し訳ありません。アザール様は今、手が離せず……」
「……あの人間か」
「はい。エル様のお勉強をなさっております」
「チッ……」
カイランは舌打ちをしながら、無言で窓の外に目を向けた。
その視線は鋭く、侍従にも容赦なく向けられる。
「そんなに熱くなるほど、あの人間に何かがあるのか?」
「……」
「……はぁ。もういい。将軍に伝えておけ。仕事はちゃんとしろとな」
踵を返したカイランに、侍従は深く頭を下げる。
しかし、彼らも何もできないのだ。
今朝方、アザールが侍従全員に告げていたからである。
エルの勉強中には、誰も部屋に入れるな、と。
怖がりなエルを怯えさせて、学ぶことの楽しさを邪魔させたくなかった。
結果、カイランの訪問も伝えられることはない。
「エル、本、好き」
「そうか。そのうち、たくさん読めるようになるさ」
「アザール、好き?」
「!」
優しく教えてもらえているからか、エルは昨日よりは少しアザールに心を開いているようで、学んだばかりの言葉を使い会話を試みようとしている。
しかし、時折アザールが勘違いしそうなことを言うので、まだまだ伸びしろしかない。
「本が?」
抜けていた述語を教えてもらうと、エルは少し考える素振りをした後、もう一度挑戦した。
「……アザール、本、好き?」
「ああ。本は好きだ」
「!」
伝わったことが嬉しかったのか、えへへと笑うその顔が愛らしい。
だが、アザールは顔には出さなかった。
ただ、エルからは見えない場所で、尻尾がご機嫌に揺れていたのは、秘密である。
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