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第14話
アザールは、文様のことを聞けなかった。
というよりも、聞いたところで、まだ会話が成り立たないとわかっている。
日常会話がもう少しできるようになった時でも遅くはないだろう──そう思って、今は一度、そのことから意識を逸らすことにしたのだった。
「エル」
「……ん」
「ご飯のあと、なにをしたい?」
エルは小さく首を傾げ、口をもぐもぐ動かしながらも、うまく言葉が出てこないようだった。
「本か、外は?」
選択肢をゆっくり提示すると、エルは「んー……」と唸りながら、少し考えるような仕草を見せた。
そして、ひと口パンをかじったあと、小さな声で──
「……そと……」
と呟く。
その声ははっきりしていたが、どこか様子をうかがうように、アザールの顔を見上げているので、アザールは『ん?』と首を傾げた。
「外は寒いし、それが嫌なら、本でもいいぞ」
「……いや、ちがう……」
エルが首を横に振る。
寒いのが嫌なわけではないらしい。
──それなのに、どこか顔が曇っているように見えるのは、なぜだろうか。
アザールは不思議に思いながらも、それ以上は聞かなかった。
外に出たいなら、そうしてやりたい。ただ、それだけだ。
食事を終えると、控え目に手を繋いできたエルに、アザールはふっと笑みを漏らした。
ゆっくり歩いて庭に出れば、やはり外は寒いようで、エルはキュッと小さくなってアザールに擦り寄ってくる。
「寒いな。走ってみるか? 体が温まるぞ」
「はし……?」
「ああ。こうだ」
アザールはエルの目の前で軽く走って見せた。
しかし、彼は狼の獣人。
彼の軽くはエルにとってはそうではなくて、颯爽と庭を駆け抜けた彼に目を見開く。
「おぉ……! アザール、すごい!」
「すごい? 何がだ」
「ぁ……え……はゆ、はゆい……? ん?」
「ああ、速い、か?」
「! はやいー!」
両手をパチパチと叩いて嬉しそうにするエルが愛らしい。
エルも彼と同じように走って見せようと足を踏み出し──転けた。
慣れない靴のせいである。
慌ててエルを抱き起こしたアザールは、怪我がないことを確認するとホッと安堵の溜息を吐いた。
「痛むか?」
「……」
「エル?」
「……」
ムッと唇をへの字に歪めている。
痛むのか、それとも──
「拗ねてるのか?」
「……」
走ろうと思ったのに、上手くできなかった。
そしてそれをかっこよく走るアザールに見られた。
恥ずかしさと情けなさに、エルはムムっと顔を歪める。
「……拗ねてるんだな」
「……アザール、はやい。エル、はやい、ちがう」
「それは、獣人と人間との違いだ」
「じゅうじん?」
「ああ。俺は、狼の獣人だから」
「おおかみ……」
エルは本で見た狼を思い出してハッとすると、顔の横に手を持ってきて軽く握るような動作をする。
「がお」
「! はは、そうだ。狼だ」
「アザール、おおかみ。がおっ!」
アザールの尻尾がバタバタと揺れていた。
二人で笑いあった後、ふと、エルが小さく指先でアザールの手を掴み、上目遣いに彼を見つめる。
「アザール、いっしょに……、はしる……?」
それは、もう一度挑戦したいという意思表示だ。
「ああ、いいぞ。ゆっくり、一緒にな」
そう言って手を繋ぎ直し、エルはアザールと一緒に庭を走った。
誰かとこうして何かをすることが、こんなにも楽しいのだということを、初めて知ったのだった。
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