15 / 100

第15話

 アザールはとても優しい人なのだと、エルは理解していた。  彼は仕事があって、四六時中一緒にいられる訳では無い。  偉い人のようで、皆からは『アザールさま』や『かっか』と呼ばれていて、彼に向かって深くお辞儀をする人がほとんどだ。    エルは外が好きだった。と、いうよりも、外しか世界を知らないので、落ち着くという方が正しい。  村のはずれ、静かなそこで長い間暮らしていたので、逆に部屋の中だと落ち着かないこともある。  しかし、彼に外が本かと問われた時、外と答えるのに少し躊躇ったのは、外に出て、そのままアザールの居る部屋に帰れなくなったらどうしようと、不安に感じていたからだ。    でも、そんなことはなかった。一緒に走って、その後は冷えた体をアザールがふわふわの布で体を温めてくれた。──それだけで、不安なんてどこかへ消えていく。  その後、彼は「おしごと」と言葉を残し、エルを部屋に一人にしてどこかに行ってしまった。  何もすることがなくて、いつも勉強に使う本を眺めたり、ちゃんと会話ができるように言葉の練習をする。  しかし、一人ではその発音が正しいのかも分からず、エルはウジウジとしていたのだけれど、意を決して部屋の扉を開け、外に立っていた二人の馬の獣人に、震える声でそれでも思い切って──『こんにちは』と、声をかけた。 「は? え、おい。出てきたぞ」 「嘘だろ。閣下は部屋にこもっているはずだと仰っていたが」 「なんだ。何かあるのか。侍従長を呼ぶか」 「いや、でも、わけも分からずに呼ぶ訳にもいかんだろう」  二人は早いスピードでテンポよく会話をしていて、しかしエルにはその内容が理解できなかった。  もう一度、「こんにちは」と言うと、二人はエルの目線と高さが合うように膝を折る。 「こ、こんにちは……?」 「何かありましたか」  茶色の髪をした騎士のリチャードと、黒髪のレイヴン。  二人はタジタジになりながら、エルに返事をする。 「これ、本と、言葉……あ……違う、ない?」 「……。おい、リチャード、わかったか?」 「わからない……。よし、もう一度お願いします」  エルはぐぬぬと眉間に皺を寄せ、本の絵を見せた。 「とけい」 「あ、はい。時計」 「……じ、じかん……?」 「はい。時間ですね」 「ぉ……ん? あさ、ひる、よる?」 「そうです。お上手ですね」  発音の仕方は、合っているらしい。  嬉しくなって、エルはそのまま本に載っている絵を指さして、続けていたのだが、知らないものが出てきたので、チラッと二人を見上げた。 「ん? 分からない?」 「? これ、なあに」 「これはライオン」 「ら、らい、おん?」 「そうそう。ライオン。俺たちの王様さ」  エルは首を傾げた。  ライオン、おうさま。おうさまとは、なんだろう。 「おうさま、何?」 「一番偉い人のことさ」 「えらい……アザール……?」 「アザール様も偉いけど、それよりも偉い人で……」  エルはアザールよりも偉いと聞き、やっぱりよく分からなくて、首を傾げたままにっと口角を上げた。 「わかんないよな。うん。今はそれでいいよ」 「いい? わからない、いい?」 「うん。なあリチャード」 「ああ、レイヴン」  リチャードは頷いて、無意識にエルの頭を撫でる。  しかしその頭が思っていたよりも小さくてギョッとし、思わずレイヴンの腕を掴んだ。 「お、おいおい。人間てのはこんなにも小さいのか。力加減を間違ったらグシャッと潰しちまいそうだ……!」 「アザール様は大変だろうなあ」  二人が話しているのを、エルはジッと聞いていた。  そして、リチャードを指さす。 「りちゃー、ど?」 「! そうです。リチャードです」 「れ、れい、ぶん……?」 「惜しい。レイヴンです。難しいよな」  今度はレイヴンを指さして発音してみたが、しかし少し違ったらしい。  二人はそれから紙に自分の名前を書くと、エルに発音を教えた。  エルはそれがとても嬉しかった。  そのうち、アザールが居ない時は、気がつけば二人と勉強をすることになっていた。

ともだちにシェアしよう!