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第26話

 屋敷の奥まった場所にある湯殿は、夜の帳に包まれてなお、湯気と灯火でほのかにあたたかい光を湛えていた。  アザールに手を引かれて湯殿へ入ったエルは、ふわりと立ちこめる湯気に目を細める。 「……わあ」  ここはいつもエルが体を洗われている場所とは、また違った場所であった。  天井が高く、石造りの湯殿には大きな湯船がひとつ。湯面には薄く湯煙が漂い、ほのかに香草の匂いが混じっている。エルはその光景に目を丸くし、思わず口を開けて見入った。  嬉しいことに、ここには使用人たちが居ない。アザールはエルが緊張するのではないかと、予め人払いを済ませていた。 「冷えた体を芯から温めてくれる。……あったまるぞ」  アザールが笑いながらそう言い、服を脱いでいく。  それを見ながら、エルはつい固まった。 「……脱ぐの、ぜんぶ?」 「ああ。俺は背を向けているから、安心しろ」  そう言ってアザールはくるりと背を向け、音も立てずに続いて服を脱いでいく。エルはそっと彼の背中を盗み見た。広くてたくましい肩、いくつもある傷跡。しかし、しなやかで無駄のない動き──。 「……かっこいい」  ぽつりと呟いたエルは恥ずかしくなって、急いで服を脱いだ。  もちろん、エルのその呟きはアザールの耳に届いていて、彼は機嫌良さげに尻尾を揺らしていた。  ふたり並んで湯船へ向かうと、湯気がふわりと肌を撫でる。 「足元に気をつけろ。滑りやすいからな」 「うん……!」  アザールの手に支えられながら、エルはそろりと湯の中へ足を入れる。じんわりとあたたかい湯が足先から腰へと広がっていき、思わずエルの口から、安心の吐息がもれた。 「……きもち、いい」 「それはよかった」  アザールは隣にゆったりと座り、湯の温度を確かめるように両腕を湯に沈める。その仕草さえも落ち着いていて、エルは横目で見ながら、ついと小さな声で尋ねた。 「アザールも、……疲れてる?」 「ん? まあ、多少はな。だが、お前とこうして入っていると、不思議とほぐれていく」 「……うれしいね」  エルはぽつりと呟くと、そっとアザールの肩にもたれる。湯の熱と、獣人の体温。どちらもやさしくて、安心できた。  アザールは少し驚いたようだったが、やがて微笑み、そっとエルの髪を撫でる。 「エル……背中を、見てもいいか?」 「!」 「嫌なら、見ない」 「ぁ……ぅ、き、嫌いに、ならない?」 「ならない」  そう断言され、エルは目をキュッと瞑ると、ゆっくり動いて彼に向かい背中を見せた。 「──!」 「い、忌み子、だって……だから、いいものじゃ、ないと思う……」 「いや……そんなことはない」  そっと背中に触れられる。  ドキッと身体を震わせたエルは、けれど何を言うこともなく、静かにしていた。 「これは……祝福の証だ。忌み子だなんて、とんでもない」 「しゅ、しゅく、ふく?」 「ああ」  アザールはまじまじとその文様を見つめ、指でなぞった。  擽ったさにビクビク震えるエルには気付かないようだ。 「神から賜わる、幸福だ」 「神様……」 「──美しい」  その声は、湯気よりもやわらかくて、あたたかくて。  エルは目を伏せたまま、ぎゅっと膝を抱えた。 「……うそ。気持ち悪いって……」 「誰が言ったんだ。そいつが間違っている」  きっぱりと言われて、エルはそっとアザールを振り返る。  真っ直ぐな瞳が、濁りなくこちらを見ていた。逃げ場所がなくて、でも、怖くない。あのときと同じだ。 「俺を信じろ。それは、美しいものだ。もしもまた誰かに『気持ち悪い』だとか、酷い言葉を投げられたなら、俺がそいつを噛み殺してやる」 「か、み……っ!?」 「……嘘だ。話し合いで解決しよう」  さらりと付け加えられたその言葉に、エルはぽかんと口を開けて、次の瞬間、ふっと笑った。 「アザール……こわいけど、やさしいね」 「お前が泣かなくて済むなら、俺はどんなふうでもなるさ」  真面目に言うものだから、エルはますます笑ってしまう。  湯気の中、柔らかい笑い声がふわりと浮かび上がるようだった。

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