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第29話
「つ、番だなんて……っ。確かに、彼を妻に迎えると仰ったのは、承知しておりますが……しかし、まだ、正式には……っ」
「お前に何か関係のあることか」
「そ、そんな……っ」
ピリピリと肌を刺すような空気が廊下に漂っていた。
エルはいたたまれず、その場から逃げ出そうと一歩踏み出しかける。けれど、ふと気配を感じて振り返ると、すぐ背後にシュエットが立っていた。
「シュエット……っ」
「はい。おはようございます、エル様」
変わらぬ丁寧な声に、エルは少しだけほっとする。
「あ、あ、お、おはよう……っ、あの、アザールが……」
「ご心配には及びません。あれは、ラビスリが悪い。アザール様は、エル様に対してお怒りではありません。ご安心くださいませ」
優しく言われて、胸がじんわりと温かくなる。
けれど、それでも心の奥に小さく刺さった棘のような感覚が消えてくれない。
「エルを侮辱するということは、俺を侮辱するのと同じだ。貴様は、それをわかって、先のようなことを……?」
「っ、違います……! 私は、ただ──ッ」
「ただ、何だ。何か理由があるのなら言ってみろ。下らないことであれば許さんぞ」
アザールの声は静かなまま、しかしその一言ごとに、ラビスリの肩がみしみしと縮こまっていく。
「っ……わ、私には……っ、兄がおります……っ。数年前の戦で、人間に殺されました。……だから、その、つい……」
言葉を絞り出すようにして、ラビスリはうつむいた。
怒りとも悲しみともつかぬ感情が、混じり合ったような顔をしている。
アザールの眉が、わずかに動いた。
「……それは、痛ましいことだ」
静かな声音に、ラビスリがびくりとする。
「だが、それはエルとは関係のない話だ。エルは人を殺したわけでも、お前の兄を侮辱したわけでもない。ただ、俺の番になる者として、ここにいるだけだ」
「……っ」
「過去を理由に今を歪めるな。自分の憎しみを他者にぶつけるような真似を、二度とするな」
冷たい声音が、突き刺さるように響いた。
ラビスリは、何も言えずにただ深く頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした」
ラビスリはわずかに拳を握った。
その目に宿った色を、誰も気づかないまま、彼は静かにその場を後にした。
緊張が解けたように、エルの肩がふるりと揺れる。
アザールがゆっくりと振り向いた。
「……すまない。朝から、嫌な思いをさせたな」
その声はもう、いつもの優しい低音だった。
エルはぎゅっとアザールの袖を握って、首を横に振る。
「アザール……怒ってたの、僕のため、だった……?」
「……ああ。……俺は、お前を守りたいんだ。この先も、ずっと」
その言葉に、ポッと頬が熱くなる。
エルは何も言えずに、ただこくんと頷いた。
シュエットがそっと気配を引いたのを感じて、エルはアザールの手を握り返す。
「……アザール、あったかいね」
「お前の手が冷たいからだ」
そう言って、アザールはエルの手を両手で包み込んだ。
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