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第32話

 仕事に向かう時間がやってきた。  アザールは名残惜しげにエルから離れると、支度のために一度部屋に戻ってしまう。  一人になったエルは、レイヴンとリチャードと共に庭に出て、雪の降る中足跡を残して楽しんでいる。 「エル様、風邪をひかれますよ」 「風邪ひかないよ!」 「こんなに寒いんだから、くしゃみも咳も出ちゃいますよ」 「ん……。ん、くちゅんっ!」 「ああ、ほらあ!」  たらりと鼻水を垂らしたエルに、リチャードが駆け寄り、そっとティッシュで拭ってやれば、鼻を赤くして「ありがとう」と微笑む。  そのあどけなさにお馬さん二人はほっこりして、その頭を優しく撫でていた。 「さあ、お部屋に入りましょう」 「うん」  そうして建物の方に足を向けた時、「──おい」と低い声に呼び止められ、振り返った。 「!」 「エル、といったか。将軍はどこだ」  そこには一度見た事のある獣人、カイランが立っていた。   「カイラン様!」  リチャードとレイヴンが慌てて挨拶をすると、カイランは「将軍は」ともう一度問い質す。 「お部屋で支度をなさっています」 「そうか」  鋭い目はエルに向いて、エルはドキリとしたが、しかしどことなくアザールに似ている彼を怖いとは思わなかった。 「え、エル、です。……カイラン……?」 「ハッ、俺を呼び捨てにするとは」 「んん……カイラン、様?」 「……カイランでいい。どうせお前は将軍の妻になるんだろう」 「……つま、違うの。番になるの」 「ああ? 番だァ?」  カイランの眉がググッと寄る。  エルはよく分からなくて、首を傾げた。 「お前、番の意味わかってんのか?」 「えっと……ずっと一緒にいる……」 「……番ってのはな、獣人にとって特別な意味がある。たんに一緒にいるって話じゃない。心も体も、魂も、全部を結ぶ。人間が相手なら“妻”って呼ぶこともあるが、“番”はそれ以上だ。重みが違う」  妻と番の違いを説明されたが意味が理解できず、キョトンとする。 「むずかしいねぇ」 「……」 「アザールね、お着替えしてるよ」 「……お前、よくそれだけ話せるようになったな」 「うん! 頑張ったよ」 「そうか」  大きな手が頭に乗る。  ポンポンと撫でられると嬉しくて、エルはその手を取ると建物を指さした。 「アザールはね、こっち!」 「……案内してくれるのか」 「うん!」  カイランはエルの手を振り払うことはなかった。  それどころか、小さな人間が一生懸命に言葉を学び、大きな獣人相手ににこやかにしている姿が健気で、少し可愛らしさすら感じている。 「いやしかし、そもそもお前はいくつなんだ」 「いくつ……? あ、いい、靴?」 「違う。年齢の話だ。何歳だ」 「んん……わかんない……」 「は? 自分の歳、わかんねえのか」 「村の人、教えてくれなかった……」 「……マジかよ」  カイランは少し目を細めて、エルを見下ろした。  同族にも見捨てられた哀れな子ども。  まさか、それを獣人が愛して育てているとは、きっとあの村の奴らは夢にも思っていない。  良くて奴隷として飼われていると思っているだろう。  アザールの部屋の前につき、エルはコンコンと小さな手で扉をノックした。   「アザール、カイランだよ」  扉の前からそう声を掛ければ、すぐに扉が開いて中から部屋の主が顔を出す。 「カイラン? どうしたんだ」 「迎えに来た。王がお呼びだ」 「なに……?」  アザールの顔が顰められる。  そんな彼の視線が下げられると、それはエルとカイランの繋がれた手で止まった。 「……なぜ、手を繋いでいる……?」  カイランは『やばい』と咄嗟にエルの手を離し、その手を背に隠す。 「アザール、ここだよって、カイランに教えてあげたの」 「……そうか」 「上手?」 「ああ、上手だ」  アザールはエルを攫うかのようにサッと抱き寄せると、カイランを睨みつけてグルっと小さく喉鳴らした。  カイランは両手を挙げて『降参』のポーズをとる。 「レイヴン! チャールズ!」  ピンと張った糸のように厳しい声でエルの警護の名前を呼んだアザールは、静かに控えていた彼らを見るとそっとエルを渡した。 「そろそろ出る。エルを頼んだぞ」 「はいっ」  エルはレイヴンの腕の中で、頭の中にはてなマークを沢山浮かべていたが、しかしアザールにヒラヒラと手を振った。 「いってらっしゃい。アザール」 「……。ああ、行ってくる。いい子で待っててくれ」 「うん」  無邪気な笑顔と、小さく振られた手が、波立ったアザールの心をすっと落ち着かせた。

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