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第38話

 優しく名前を呼ぶ声と、朝の光に目を覚ます。  エルはじっとこちらを見つめていたアザールと目が合うと、ふっと目を細めて、その逞しい体にそっと身を寄せた。 「エル、おはよう」 「んぅ……おはよ……」  アザールがそっと髪を撫でる。  静かな時間が流れたあと、彼は少し声の調子を変えて言った。 「そろそろ出る時間だ。見送りをしてくれるんだろう?」  エルは、わずかに眉を下げた。けれどすぐに表情を引き締め、小さく頷く。  何かを飲み込むように唇をきゅっと結んで、ベッドから起き上がった。  ──また、行かないでって言ったら、アザールは困る。  それに、もうちゃんと決まってること。だから、泣かない。言わない。  そう自分に言い聞かせるように、静かに服を整える。  その後ろ姿を見つめるアザールの胸に、じんとしたものが広がった。 「……ありがとう、エル」  何に対する感謝かは言わなかったが、エルはその一言ですべてを察したように、アザールの方を振り返り、ふわりと微笑んだ。 「……いってらっしゃいって、ちゃんと言うの」 「ああ。聞かせてくれ」  ぎゅっと手を握ってほしいと願ってしまいそうな気持ちを抑えて、エルはただ前を向いて歩く。  部屋を出ればシュエットにリチャードとレイヴンが待っていた。  屋敷の主を見送るのだ。玄関先にはきっとほとんどの使用人が並んでいることだろう。    アザールは屋敷にいない間のことを改めてシュエットに伝えていた。  そのあいだに、リチャードとレイヴンはエルに近づいてそっと耳打ちをする。 「アザール様には、行ってらっしゃいと『ご武運を』とお伝えすれば良いですよ」 「……ご武運を?」 「はい。無事にお帰りになるように祈りを込めてお伝えするんです」  エルは教わったばかりの言葉を静かに繰り返して練習し、リチャードとレイヴンからオッケーを貰うと自信ありげに頷いた。    そしてアザールが玄関に姿を現すと、すでに整列していた使用人たちが一斉に頭を下げた。  エルはその光景に思わず後退りしたが、シュレットに背中を押され小さな足で前に出る。  アザールの瞳がエルを視界に入れると、エルは顔を上げてまっすぐに見つめた。  少しだけ唇を震わせたが、視線は逸らさない。 「……いってらっしゃい、アザール」 「ああ」 「ご……ごぶ、ぶ……んを」  一度噛んでしまい、きゅっと眉を寄せる。けれどすぐに言い直す。 「ご武運を……! ちゃんと、帰ってきてね」  胸を張って言いきったその姿に、アザールの目が細められた。  応えたのは、無言のまま、ふわりと優しく崩れるような微笑みだった。 「エル。……よく言えたな」  それだけ言って、アザールは手を伸ばす。  触れそうで触れない、そのぎりぎりの距離で止まり──代わりに、視線を絡めてしっかりと伝えた。 「必ず帰る。待っていてくれ」  エルは真剣な顔で頷くと、今度こそ言葉を呑み込み、静かに見送る体勢に戻った。  そうしてアザールは、背を向けて門の外へと向かう。  エルはその背中を、まるで何かにしがみつくような眼差しで見つめながら、両手を胸の前でぎゅっと握りしめていた。  門が閉まり、大きな背中が見えなくなる。  寂しさで崩れてしまいそうになったエルを、レイヴンがそっと支えた。 「エル様、中に入りましょう」 「……っ、アザール、行っちゃった……」  思っていたよりもあっさりとした別れだった。  朝起きてすぐの事だったし、別れる前よりも、後の方がこんなに心細く感じる。 「エル様、きっとすぐにお戻りになりますよ」  そう言って背中に触れてきたのはシュエットだ。  大きな瞳に涙を溜めながら、エルは顔を上げて彼を見た。 「それまで、私達と待っていましょうね」 「ぅ……」 「あら、泣いている暇はありませんよ。アザール様がお帰りになるまでに、エル様にはもっと沢山の言葉を覚えていただかないと!」 「……っ、うん。頑張るよ」  彼が帰ってきた時に、きっと驚かせてやるんだ。  エルはそっと立ち上がるとレイヴンに「ありがとう」と伝え、こちらを心配そうに見下ろしていたリチャードに柔く微笑んでみせる。 「部屋に、戻るね」 「はい。ここは寒いですからね。温まりましょう」  四人はそうして屋敷の中に戻る。  温かい空気に包まれ、エルはふと息を吐いた。  ──泣かない。ちゃんと、アザールを待ってる。    彼が帰ってくるまで、涙を流すのはやめようと心に決めたのだった。

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