39 / 100
第39話
アザールの向かった場所は、エルがかつて暮らしていたグイラヴィ村よりも少し手前。王都から見れば北に位置する村だった。
獣人を嫌う気質が根強く残る土地へ向かうのには、さすがの彼にも多少の覚悟が要る。しかし、それでも王命とあらば、従わないわけにはいかない。
「……それにしても、気が重いな。別に俺は人間が嫌いってわけじゃないが、進んで仲良くなろうとも思わん」
「俺だって同じさ」
隣を並ぶカイランが、不貞腐れたような口調で言う。アザールは小さく肩を揺らして笑った。
「その割に、あの子供にはずいぶんとご執心だな」
「あれはエルだからだ」
即答するその声には、どこか温もりがにじんでいた。
「……心までも、あんなに美しい子は滅多にいない。だからこそ、大切にしたいんだ。人間か獣人かなんて、俺にとってはどうでもいい」
吐く息が、白く空に溶けていく。
この先に何が待っているかは分からない。だが、願わくば、争いだけは避けたい。
エルに必ず帰ると、約束した。
それも、なるべく早く。だからこそ、無駄は省いて迅速に任務を果たさなければならない。
「予定では三日で着くはずだったな」
「ああ。何事もなければ、な」
「往復で六日……話し合いが長引かないといいんだが」
「……」
アザールの独り言めいた呟きを、カイランは口を引きつらせながら聞いていた。
──どんだけ早く、あのガキに会いたいんだよ。
口には出さないが内心若干呆れていた副将は、ただ前を向いて小さく息を吐いた。
しばらく歩いた先。
日が沈む前に今日の野営地を構えた獣王軍は、小さく談笑しながら食事をとっていた。
「ところで将軍。以前の遠征で連れ帰った人間は、今は将軍の元で暮らしている上に、妻とすると聞きましたが……」
「ああ、その通りだ」
兵士一人の言葉に頷く。
傍にいたカイランはふっと笑った。
「番になると言っていたぞ」
「ええ……? 人間と番に……? 我々と人間とでは価値観は大きく違いますが……」
「わかっている。だから少しずつ教えていっているところだ」
アザールはさらりと答えるが、その声音には確かな責任感と、どこか誇らしさが滲んでいる。
兵士たちは顔を見合わせると、少し気まずそうに目を逸らしたり、そっと湯を啜る者もいた。
「……お相手の方、年はおいくつで?」
「まだ若い。だが、しっかりとした子だ」
「へえ……将軍の言う『しっかり』は、本当にそうなのでしょうね」
「……たまにうっかりもしているが、そこが愛らしい」
アザールの少し苦い声に、カイランが肩をすくめた。
「……お前たち、子供だからといって不用意に近づくなよ。俺も最近危なかったんだからな」
「危ない? どうしてです」
「いや……将軍の怒りを買いそうになった」
エルに手を繋がれた時のことを思い出し、カイランは気まずそうにアザールから顔を逸らす。
それを聞いて、兵士たちは揃って噴き出すように笑った。
「将軍が怒るだなんて、何をしたんですかカイラン副将!」
「それくらい将軍はエルに夢中だって話だ」
「……カイラン、お前はいつからあの子を『エル』と呼んでいる」
「あんたの怒りを買いそうだった時だよ。……ああ、やめてくれ、怒るな。名前を呼ぶくらい許せ」
「ははは、いやあそんな、獣王軍の将軍様が、嫉妬で怒るなど、らしくありませんよ! 本当に番にされるおつもりで? 人間ですよ?」
調子のいい兵士がヘラヘラと笑いながら言う。カイランは『まずい』と思い、咄嗟にその兵士の口にパンを突っ込んだが、しかし言葉は戻らない。
「……いずれ正式にそうするつもりだ。エルを馬鹿にするものは何人たりとて許さんぞ」
アザールが言い切ると、場の空気が一瞬だけ静まった。
だが次の瞬間、それはひそかな敬意を含んだ沈黙へと変わる。
「……す、すごいですよ、将軍」
「……偏見に囚われたままじゃ、何も変わらん。俺たち獣人がそうであるように、人間の中にも、変わろうとしてる者はいる。俺はそのことを、エルを通して学んでいるんだ」
その声には、誰も何も返さなかった。
ただ、焚き火のはぜる音と、冬の夜風だけが、野営地に静かに流れていた。
ともだちにシェアしよう!

