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第44話
◇
アザールが遠征に出た翌日のことだった。
エルは寂しさを堪えてシュエットと共に勉強に励んでいた。
「じゃあ、王様が国の中で、一番えらいのね」
「はい。そうですよ。獅子ですから、すぐに王とわかるでしょう。鬣がとても美しくてまるで輝いて見えますよ」
「輝く……キラキラ?」
「はい。その通りです」
言葉だけではなくて、国の常識も教えてもらい、エルの瞳は嬉々としている。
大好きな人は傍にはいないが、しかし穏やかな日常。
寂しい日はまだ少し続くけれど、我慢しなくちゃと前を向いていたその時だった。
屋敷の中が騒がしくなる。
何度もシュエットを呼ぶ声が響き、リチャードとレイヴンが慌てたように勉強をするエルの部屋に飛び込んできた。
「何事ですか」
「それが、突然兵士がやってきて、王命によりエル様を王様のもとへお連れするとのことです……!」
「なんですって……?」
シュエットが目を細める。
エルはというと、状況が分からずただ目を瞬かせて三人を眺めていた。
「アザール様が不在だと知っておきながら、エル様をお連れすると……?」
「屋敷の中に入ってきています! どうしますか」
エルを隠すのか、王命だから従うしかないのか。
苦渋の決断の末、シュエットは深く息を吐くとそっと膝をついて、エルの目を見つめた。
「エル様、先程お伝えした王様が、エル様にお会いしたいそうです」
「……? どうして?」
「それが……わかりません。ただ、アザール様がエル様を番にすると仰っているのにも関わらず、アザール様が不在の時にそのような事を仰るのは、あまりにも失礼なこと。いくら王様であっても、獣人であるならば、そのようなことをしてはならない」
「?」
それはまるで人の番を奪おうとせんばかりの行為だ。
シュエットはググッと手を握ると、強い目をエルに向ける。
「しかし、王命です。これを拒否すればきっと、アザール様の名を汚しかねない」
「……シュエット、苦しいの?」
「っ、」
主も、主の番も、シュエットにとっては大切な人。
天秤にかけることはできないが、しかし、王命に逆らうとなると、アザールの身も危険になる。
そうしているうちに、部屋の扉が無遠慮に開かれた。
兵士が流れ込んできて、中にいた四人を逃がすまいと囲む。
「王命により、将軍閣下の妻を王へお連れする。従わぬようならば、獣王軍アザール将軍の名誉が傷つく上に、反逆の罪を問われると思え!」
「っ!」
シュエットの手が震えているのを、エルは見た。
怖い顔をしている兵士たち。
人間とは違う鋭い牙や、爪に、角だってある人たちがいる。
大きな体は、アザールと同じくらいだろうか。
エルはただぼんやりと、先程声を荒らげていた大男がそばに来るのを見上げた。
手が伸びてくる。怖くてキュッとシュエットの服の裾を掴んだけれど、誰もその手を取ってはくれない。
みんな。シュエットもレイヴンにリチャードも。みんなみんな、この人が怖いんだ。
ここにアザールはいない。
自分を守ってくれる人は、そばにいない。
不思議と涙は出なかった。
怖くて、体は震えてしまうし、せっかく覚えた言葉もまるですっかり忘れたかのように、声すら出ない。
大男に腕を掴まれ、強い力で引っぱられる。
痛いけれど、顔を顰めてしまうだけで、文句を言う気も起きなかった。
どうして。どこに連れていかれるのだろう。
そればかりが、頭の中をぐるぐると巡っていた。
「この人間には文様があるんだってな?」
「!」
また『文様』だ。
エルはぐぐっと眉を寄せた。
しかし別の反応をしたのは三人である。
「文様……?」
「ここの屋敷で働いていた……ラビスリ、だったか? そいつが王にたれ込んだらしいぞ」
「な……っ」
シュエットがそう言葉をこぼし、レイヴンとリチャードは怒りにギリっと歯を鳴らす。
あいつめ。まさか、エルに恨みを抱いて──。
しかし、そこまで考えたところで、今は何もできない。
エルに文様があることは事実だが、それは三人とも知らないことであった。
これはエルが他のものに知られたくないと思っているのではないかと、アザールが配慮していたからである。
だが、湯浴み係はもちろん知っており、なにかしらの弱点を握るために探りを入れていたラビスリが、この屋敷からエルを追い出すために密告したのだとしたら、それはとても納得がいく。
三人はそこまで考えると、不安げに瞳を揺らすエルに心の中で何度も謝った。
そうして連れられていく彼を、眺めていることしかできなかった。
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