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第47話
レオンと別れると、エルは与えられた部屋の窓から、ぼんやりと空を見上げていた。
アザールは今、どこにいるのだろうか。
彼が屋敷を出てから、もうすぐ二日が経つ。
怪我はしていないだろうか。寒くはないだろうか。
考えるだけで寂しくなってしまうけれど、それを慰めてくれる人たちが、今はそばにいない。
それが、一番つらい。
涙がこぼれそうになって、慌てて目元をこする。
アザールが帰ってくるまで、泣かないと決めた。
グッと目に力をこめて、深く息を吐く。
「──エル様」
「!」
突然、扉が開いてエルは驚いた。
振り返ると、そこには白い服をまとった女性が立っていた。
何の獣人かはわからないが、ひょこひょこと三角の耳が動いている。
「湯浴みの時間でございます」
「湯浴み……。ぁ、いや……」
背中の文様を、見られてしまう。
それは、アザールの他にはあまり見せたくないものだ。
「ぬ、布と、お湯だけ……ください。自分で、やるから……」
「……かしこまりました」
女性は一礼すると、そのまま静かに部屋を出ていった。
けれど──エルは気づいていなかった。扉の外に、もうひとつの影が潜んでいたことを。
そこには王が、気配を完全に消したまま、じっと佇んでいた。
──湯浴みを拒否するか。
ただの恥じらいではない。
それは、誰にも見せたくない理由があるからだ。
密告の内容はおそらく事実。
あの背中には、特別な印があるのだろう。
ならばなおさら、早く確かめねばならぬ。
王はゆっくりと目を細めた。
今はまだ、焦る時ではない。
エルが心を開くまで、きっとあと少し。
すでに手は打ってある。
撫でるように距離を詰め、警戒を解かせ、次は──
「……楽しみにしているぞ、可愛らしい仔猫よ」
誰にも聞こえぬほどの声で、低く呟くと、王は静かにその場を去っていった。
その夜、エルはアザールの夢を見た。
雪の中で手を引かれ、あたたかな腕に抱かれていた。
柔らかな匂い。大きな掌。誰よりも安心できる、ただ一人の人。
──目が覚めると、涙が頬を伝っていた。
◇
翌朝、エルは少しだけ、昨日よりも気持ちが落ち着いていた。
昨夜は一人だったけれど、レオンという優しい王子様がいて、彼に会えば話をしてくれるとわかっているので、寂しくなった時は彼を訪ねればいい。
朝食の用意にやってきたのは、昨日とは別の、丸い耳をした獣人の女性だった。
彼女は無言でテーブルに皿を並べていたが、エルはそっと声をかけてみた。
「……お名前は、何といいますか……?」
女性はピタリと手を止め、驚いたように振り返った。
「……はい。私はティナと申します」
「てぃ……てぃな……ティナ、さん。ありがとう、ございます。すごくおいしい、です」
その言葉に、ティナの表情がふっと柔らかくなった。
「……恐縮です。エル様が少しでもお気持ち安らげるよう、こちらにいらっしゃる間は私がお仕えいたします」
エルはこくんと頷いて、パンを口に運ぶ。
アザールの屋敷のように賑やかではないけれど、こうして話せる誰かがいるのは嬉しい。
「……また、お話……して、いいですか?」
「もちろんです」
やりとりはたどたどしいけれど、それでもティナは終始、穏やかな笑みを向けてくれていた。
その優しさに、胸の奥がじんわり温かくなる。
王の思惑とは別のところで、エルはこの城の中に、小さな「味方」を一人、見つけたのだった。
その日の昼下がり。
食後に少し体を動かしたほうがいいというティナの提案で、エルは彼女に付き添われながら城の回廊を歩いていた。
日の差す石造りの廊下。外よりは暖かく、足元も冷たくない。
ティナが静かに歩幅を合わせてくれるのが嬉しくて、エルも少しずつ足取りが軽くなる。
「お外、好きです。昨日、大きい氷でできた人形を、見ました!」
「ああ、あの像のことですね。今はさむくて雪が多いですが、春には花も咲きますよ」
そうやって二人で話していたそのとき。
「──エル殿!」
突然響いた声に、エルが顔を上げる。
振り向いた先には、レオンがいた。
レオンは一瞬驚いたようだったが、すぐに表情を緩めて駆け寄ってくる。
「お会いできて嬉しいです! 今日は……お散歩ですか?」
エルがこくんと頷き、にこっと笑った。
「ティナさんと、一緒に」
「ティナと。……お傍に居るのがティナなら安心ですね。エル殿、何か足りないものがあれば遠慮なく彼女にお伝えくださいね。できる限り、用意しましょう!」
「そ、それは、それは大丈夫です!」
「? そうですか?」
レオンは今から時間があるらしく、このまま一緒に話をすることになった。
エルの不安は薄れていき、いつの間にか笑っている時間の方が長くなっていく。
もともと順応能力が高いので、優しい人がそばにいるとわかれば、安心できるのだ。
「ティナ、手を、握ってもいい……?」
「あら。もちろんですよ」
ティナはエルとレオンの少し後ろに立っていて、それが気になったエルは彼女と手を繋ぐとにっこり笑う。
それがあまりにも可愛くて、ティナはふふっと笑うと、エルの隣に立った。
「ティナばかり羨ましい。エル殿、私とも手を繋ぎましょう」
「でも、王子さま……」
自分はただの人間であり、王子と手を繋げるようなものでは無い。
これまでアザールの屋敷で教わったことを思い返して、躊躇していれば、レオンの方からエルの手を取りに行く。
「私達はもう友ではありませんか。王子ではなく、レオンと呼んでください」
「えぇ……? 怒られちゃう……」
「怒られません! その怒ったものを私が怒ります!」
「ぁ……ティナぁ……!」
「こうなった王子様は私には止められませんよ」
「さあほら!」
穏やかに微笑むティナと、ふんぬ!と力強く胸を張るレオンに、エルは完敗だった。
「ぅ……れ、レオン……?」
「! はい! エル!」
ニコニコと嬉しそうな彼に、エルは苦笑したのだった。
◇
その夜。
王の私室──扉の奥、薄暗い部屋では獣人の側近が恭しく頭を垂れた。
「──エル殿は、城での生活に徐々に慣れてまいりました。今朝は自らティナに話しかけたとの報告が」
「ほう……」
王は椅子に深く腰掛け、指で杯をくるくると転がしていたが、その動きをふと止めた。
金色の目が、ぴたりと細められる。
「警戒は?」
「薄れてきております。まだ完全とは言えませんが、昨日は王子殿下と回廊を散策し、楽しげに笑っていたとのこと」
「そうか……ならば、早いところ手を打つか……」
低く呟かれた王の声に、男は静かに膝をつく。
「──ご命令とあらば、いつでも」
「いや、まだだ。花は、摘み時を誤れば香りを失うものだ」
ここまで慎重に進めているのは、余計な火種を生まないため。
無理に服を剥いだなどと噂されれば、王族の威信にも傷がつく。
何より──あのアザール将軍が大切に隠していた文様。
それがただの装飾であるはずがない。
あの背に宿る印を手に入れれば──王の中で、策略の糸が音もなく張り巡らされていた。
一方その頃。
ティナは厨房へ向かう廊下でふと足を止め、背後を振り返った。
人の気配はない。けれど──確かに、何かが見ていた。
最近、城の空気が妙にざわついている。
見えない圧が、じわじわと張り詰めていくような、不穏な感覚。
まるで誰かが、見えない手で周囲を撫で回しているかのよう。
ティナは思い立つように、王子レオンの部屋を訪れた。
「……殿下。少しだけ、お時間をいただけますか」
「ティナ? 何かあったのか」
就寝の支度をしていたレオンはすぐに応じ、ティナを迎え入れる。
彼女は一礼すると、言葉を慎重に選びながら話し出した。
「はっきりと申し上げられることではないのですが……ここ数日、城内に違和感があります」
「違和感……?」
「誰かの目が、常にどこかからこちらを見ているような……。あの、何かが、よくない方向に向かっている気がするのです」
レオンは眉を寄せ、沈黙する。
彼もまた、どこかでそのざわめきを感じていた。
「……わかった。気をつけよう。ティナ、エルになにも起きぬよう、そばにいてあげてほしい。……将軍の番となる方だ。何かがあってはいけない」
「承知いたしました」
二人は、エルの無邪気な笑顔を思い出す。
守りたいと思ったのだ。その純粋な表情を。
けれど──疑いだけでは動けない。
それが、今は何よりももどかしかった。
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