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第48話
静まり返った部屋の中、窓の外では雪がしんしんと降っていた。
エルはぬくもりの残る布団の中で、穏やかに寝息を立てている。
その頬はうっすらと紅潮しており、寒さの中でも心地よさを感じているようだった。
だが──。
カタン、と小さな音が鳴る。
ほんの僅かな、何かが床をかすめたような音。
眠っていたはずのエルのまぶたが、ゆっくりと震えた。
「……ん……ティナ……?」
小さく名前を呼ぶ声は、眠りと目覚めのあいだで揺れていた。
返事はない。しばらく耳を澄ますように、じっとしていたエルだったが、気配のない静けさに安心したのか、また目を閉じる。
──その様子を、影の中からじっと見つめる視線があった。
部屋の隅、飾り棚の陰。そこには城の者ではない、ただ王の命を受けただけの男が潜んでいた。
エルが再び寝息を立て始めたのを確認すると、そっと窓辺に近づく。
香炉の中に、王から渡された香を少量だけ混ぜ入れた。
淡く甘い、ほとんど感じ取れないほどの香り。
けれどそれは、じわじわと精神を緩ませ、眠りを深くし意識の奥を霞ませるような作用を持っていた。
王からは「すぐに効かせるな」と言われている。
あくまで、自然な変化に見せかけるようにしなければならない。
男は気配を殺したまま、再び闇へと溶けるように姿を消す。
部屋の中では、エルが身じろぎしながら寝返りを打ち、深い眠りに落ちていった。
◇
翌朝、ティナは朝食を運ぶためにエルの部屋を訪れた。
けれど──どことなく、違和感を感じる。
「……エル様?」
ベッドの中で、エルはぐっすりと眠っていた。
昨夜はそれほど遅くはなかったはずなのに、今日はなかなか目を覚まさない。
ティナが心配そうに呼びかけると、エルはようやく目を開くが、スッキリとはしていない様子。
「……あれ……?」
「おはようございます。……具合が悪いわけでは、ありませんよね?」
「……んーん。なんか、へんな夢、みた……ような……」
ぼんやりとしたエルの言葉に、ティナの眉が僅かに寄る。
どこか、いつもより反応が鈍い気がした。
そして、ふと香炉に目をやったティナは──すぐに違和感の正体に気づいた。
昨日より、灰が増えている。
香を焚いた記憶はない。自分も、誰も、この部屋で昨夜は何もしていないはず。
それなのに、香炉の中の灰の量が微かに増えている。
──そして、ほんの少しだけ残っている匂い。
それは決して、安眠用の香ではなかった。
ティナの中に、ひやりとしたものが落ちる。
ただの気のせいとは思えない。誰かが、この部屋に入ったのだ。
彼女はエルに不安を悟らせないよう、穏やかに微笑んで朝食をすすめたあと、すぐに行動を起こした。
共にいる間はきっと、何も起こらないはず。
この城で今、頼れるのはただ一人、レオン王子だけ。
「エル様、あとでレオン王子様のもとへ向かいませんか?」
「レオン……ん、あとで……」
コクコクと未だ眠たげのエルに不安が募っていく。
誰の手が彼に伸ばされているのかが分からない。早く、一刻も早く、その手が届かない場所へ連れて行きたいなに。
「あら、エル様。零れてしまっていますよ」
「ん……」
スープがテーブルにポタリと落ちる。
口元にもついてしまっているそれを、サッと拭うともたれかかってきたエルに少し驚いた。
「エル様、お体がお辛いですか?」
「……アザールぅ」
「……将軍様はまだお帰りではありません。きっともうすぐお迎えに来られますからね」
ティナは優しい声でそう言うと、たまらずエルを抱き上げた。
女性ではあるが獣人だ。力はある。
不躾だとは思ったがしかし、このままエルを置いておくことはできない。
ティナはそうしてエルと共に王子の部屋に向かった。
最初は驚き目を見張ったレオンも、何かがおかしいとわかるとすぐに部屋に招き入れ、柔らかいソファーにエルを寝かせることを許す。
エルがソファに落ち着いたのを見届けて、ティナはようやく息を吐いた。
「……殿下、申し訳ございません。急にこのような形で……」
「いや……ティナ、何があったのか、教えてくれ」
レオンの表情は真剣だった。
今のエルの様子が、ただの寝ぼけや疲れではないことは、はっきりとわかる。
ティナはゆっくりと、夜中に香が焚かれていたこと、エルの反応が鈍いこと──それがただの偶然ではない気がしてならないという胸のうちを語った。
レオンは話を聞き終えると、静かに頷いた。
「……つまり、何者かが夜中に部屋へ入り、香を仕掛けた可能性がある、と」
「……はい。証拠はありません。ただ、香の灰と、微かに残る匂い……。そして、エル様の様子。それらが偶然とは思えないのです」
レオンは腕を組んだまま黙り込み、しばし考え込む。
そして、そっとエルの寝顔に目をやった。
無防備に眠るその顔に、かすかに苦しげな気配が混じっているように見える。
「しかし、誰が、なぜエルにそんなことを……? 皆、彼がアザール将軍の番になる方だとは承知のはず。獣人であるならば、彼の体に染み付く獣の香りに気がつくだろう」
「ええ、ですから──」
ティナはそこまで言うと口を噤んだ。
ここから先はそう易々と口にしてはいけない。
「──父上か……。いや、違っていてほしいが……」
レオンの声には、痛みと疑念が入り混じっていた。
だか、将軍の存在をも恐れない。そんな人は、この国の王しか考えられない。
「父上がエルを狙う理由はなんだ。たしかにとても美しいお人だが、既に将軍が大切にしていると知っておいでなのに」
「……エル様に、何か特別なものがあるのでしょうか」
そう呟きながら、ティナには何か引っかかる物があった。
エルと接していて少しだけ「あら?」と思ったことがある。
「……湯浴み」
「湯浴み?」
「はい。……エル様は、湯浴みをとても嫌がられていて、いつも自分でやるとおっしゃるのです」
ジッとソファで眠るエルを見つめる二人。
「体を見られたくない理由があるのでは?」
「……」
「見せられない何かがある……?」
そう言って少し近づいたティナに、レオンは「やめなさい」と口にした。
レオンの声は静かだったが、はっきりと芯が通っている。
「……無理に暴いては、彼がどんな想いでそれを隠しているかも、踏みにじってしまうかもしれない」
ティナは慌てて頭を下げた。
そうだ。そんなことをしてはいけない。
「エルの目がさめたら、尋ねることにしよう。しかし、無理には聞き出してはいけないよ」
「わかりました」
レオンは心配からエルの頭を撫でると、厳しかった顔から柔らかい表情へと自然に変わっていったのだった。
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