55 / 100

第55話

◇  王城を出て屋敷に戻れば、アザールはエルを抱いたまま私室に駆け込んだ。  何か薬を盛られているのか、ベッドに寝かせれば、その顔は赤く、息は浅く、目元は少し潤んでいる。 「エル、熱が上がってるな……」 「ん、……なんか、へん……」  触れると肌がやけに熱い。  香の効果がまだ身体に残っているのだ。  アザールは無言で水を持ってきて、額に冷やした布を当て、指先で背中をやさしくさする。 「つらいか?」 「……ん、でも……アザールが、いるから……だいじょうぶ」  エルの小さな声に、アザールはそっと抱きしめた。 「すまない。こんなことになるとは思ってもいなかった……!」  悔しい。たった一人。何よりも大切なエルを、こんな風に傷つけてしまうだなんて。   「えへへ……大丈夫、だよ。もう、怖くないし……」 「すまない。エル……」 「ん……アザールぅ……」  エルの赤らんだ頬を撫でれば、その手にすり寄ってくる。  胸がキューッと締め付けられるように苦しくなって、目元が熱くなり、エルに覆い被さるように上下する胸に額をつけた。 「アザール、泣かないで……大丈夫……」 「っ、」 「大丈夫、だいじょうぶ」  髪を撫でられる。  そのまま抱きしめられると、アザールはいよいよ目に浮かんだ涙を零す。 「アザール……ぼく、ねむたいよ……」 「っ、ああ。休んでくれ。俺はずっとここにいるから」 「ん……ありがと……」  涙を拭って顔を上げる。  安心させようと微笑んでみせれば、エルも薄く笑みを浮かべ、そうして眠りに落ちた。  体が辛いのか、汗をかいている。  アザールは「シュエット」と小さく従者の名前を呼び、それに応えて現れた彼に顔を向けることもなく口を開ける。 「湯と、布を。エルの体を拭ってやらねば」 「はい。──アザール様、一つ、ご報告が」  その言い回しに、アザールの耳がわずかに動いた。  報告は一つ。それでも、予感は複数あった。 「……王の追っ手か?」 「いいえ。──カイラン様が」 「……カイランが? なぜ……まだ部隊は──」 「皆様がお越しです。ここはリチャードとレイヴンに任せて、どうか」  アザールは眉をひそめ、シュエットの言葉を繰り返すように問うた。 「皆……? 本当に、全員来たのか?」 「はい。残っていた部隊の方すべて、カイラン様の指示で」  その瞬間、アザールの目がわずかに見開かれた。  まさか、あの男が──いや、あいつなら、やりかねない。  だがこれは、王に牙を剥くということ。簡単なことじゃない。  エルを見つめたまま、アザールは低く息を吐く。  安心と、そして次に来る不穏の気配を感じながら。 「シュエット、しばらくここはレイヴンとリチャードに任せる。他には誰にも入れるな」 「はっ。屋敷の警備も既に固めております。それから──どうやら城下にも情報が流れ始めているようです」 「……流れ始めている? なんの情報が──」 「カイラン様が、『王が将軍の番を攫った』と街の者へ語ったそうです。すでに広まりつつあります」  アザールは目を伏せた。  口の悪いあいつらしい手法だが──それは、いずれ国そのものを揺るがす炎になるだろう。  だが、構わない。構わなかった。 「……よくやった、カイラン」  エルの熱い頬に触れながら、アザールは静かに呟いた。

ともだちにシェアしよう!