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第58話
翌朝。まだ朝靄が残る頃、アザールの屋敷に、思いがけぬ客が訪れた。
中庭にいた兵士たちはザワザワしていて、眠るエルと手を繋いだまま、椅子に座って休んでいたアザールのもとにシュエットがやってくる。
「アザール様、レオン王子殿下が、側近の方々と共にいらっしゃっています……!」
報せを受けたアザールは、わずかに眉を寄せる。
王が差し向けたのか、それとも、別の何かがあるのか──。
まだエルから離れたくはないが、王子が来ているのに出ないわけにはいかない。
「エルが起きたら、俺は直ぐに戻ると伝えてくれ」
「わかりました」
そっと手を離して、布団の中に入れてやる。
優しく頭を撫で、額にキスをしてから、アザールは部屋を出た。
玄関先に立っていたのは、雪を払った白い外套に身を包んだレオンだった。
その背後には、見慣れぬ女性が一人。控えめながらも、まっすぐな視線でこちらを見つめていた。
付き人だろうか? それにしては、妙に目が据わっているが……。
アザールはひそかにそう思いつつ、レオンに視線を戻した。
「突然の訪問、失礼します。……少しだけ、話をさせてほしくて参りました。エル殿の様子も、気になって……」
その声に、警戒していた兵たちの肩の力が抜ける。
アザールは一拍置いて、静かに頷いた。
「──ご案内いたします」
アザールは一礼し、レオンたちを屋敷の中へと案内した。
兵士たちが控えめに道を開け、ちらと女性──ティナの姿に目を留める者もいた。
応接間に通すと、アザールは無言で椅子を勧め、自らは対面に腰を下ろす。
レオンの背後には、控えめに立つティナの姿。彼女はじっとアザールを見つめていた。
「アザール将軍……ご無事で何よりです。そして……エル殿のことも」
アザールは短く頷き、ふと目を伏せる。
「エルも無事です。熱はありますが、意識もあり、今はよく眠っています。……ですが、殿下がここに来られた理由を、お聞かせ願えますか」
淡々とそう言えば、王子は小さく息を吐いたあと、深く頭を下げてきて、さすがのアザールもギョッと目を見張った。
「私の父が、大変申し訳ないことをしました。どのように謝罪すれば良いのかわからず、しかし、謝らないわけにもいかなくて……。じっとしていられずに飛び出してきました……」
「……」
王子の言葉に、アザールはしばし沈黙した。
まさか王族がここまで頭を下げるとは。だが、礼を尽くされた今、敵意を向けるわけにもいかない。
「……こうして足を運んでいただいたことには、感謝いたします」
丁寧に言葉を返すと、レオンは安堵の表情を浮かべた。
そして、立ったままのティナへと視線を送る。
「この者はティナと申します。エル殿が城にいる間、仕えていた従者です。まず……私と彼女は、城内の様子が少しおかしいことに気がついていました」
「……と、いいますと……?」
おかしい、とはなんだ。
もしかすると、この二人はエルを守ろうとしてくれていたのだろうか。
「はい。エル殿が眠られている時、少しティナが離れた時間があったのですが、その際に香を焚かれた形跡がありました。そのため、なるべくエル殿から離れないように警戒していたのですが……。どうやら、エル殿が一人になるように色々と仕組まれていたようです……」
悔しそうに手を握った王子。
アザールは目を細めると少し考えてから口を開いた。
「陛下はエルの文様の存在を知っていました。それは、先日までここで働いていたラビスリが密告したからだと」
「はい。そのように伺っております」
「陛下は、それを暴こうとした。そのうち報告をするつもりでしたが、ちょうど遠征も入ったことで中々言い出せず……。しかし、まさか、私がいない間に攫うような真似をされるとは思いませんでした」
本当のことを言えば、伝えたくなかったという点もあったのだが。
そこを隠して話せば、王子はぐっと顔を歪める。
「……そもそも、私はエル殿が攫われてきたと思っておりませんでした。今回、このような事になって、ようやく真実を聞き、驚いたのです。父からは、将軍の奥様がいらっしゃるから、良くするようにと言われていました」
なるほど。この御方は今回のことを全く知らなかった。
それどころか、エルを心配して守ってくれていた。
アザールはそれを知ると、ここで全てを話してしまおうと一度深く息を吐く。
「エルの文様のことを、お聞きになりましたか」
「存在だけは聞きました。しかし……それがどういったものかは聞いておりません」
アザールは一つ頷いたあと、慎重に言葉を選んで口を開いた。
「陛下もエルの文様が何を意味するかまでは、知られていないはずです」
「……意味、とは?」とレオンが静かに問う。
アザールはほんの少し間を置いてから、低く静かに答えた。
「男性でも、ごく稀に──子を成せる特異体質を持つ者がいます。それは獣人の世界でも非常に珍しく、ましてや人間であればなおのこと……。エルは、その証を背に持っていた」
レオンの目が大きく見開かれる。
「まさか……そんなことが……」
「陛下は知らぬまま、ただ文様が何なのかを知りたかったのでしょう。もしも、意味まで知っていれば、今頃もっと強引な手を使っていたかもしれません」
アザールの声には、抑えがたい怒りが滲んでいた。
ティナがそっと口を開く。
「……それを、ずっと隠してこられたのですね」
アザールは視線を向け、静かに頷いた。
「本当は、誰にも知られたくはなかった。エルは文様のせいで人間に迫害されていました。だから本人もあまり知られたくないと言っていた。しかし、私は将軍という立場です。本来ならば文様のことを知った時点で陛下に報告しなければならない。ただ……どうしても、エルを奪われたくなかった」
短く唇を噛みしめたアザールの告白に、レオンは静かに目を伏せた。
「……それは、当然の感情だと思います。エル殿を見て、わかりました。あれほど無垢で、誰かに一途な人を……奪われていいわけがない」
その言葉に、ティナがふっと微笑み、アザールもわずかに目を細めた。
「……殿下が、こうして来てくださったことは、私にとってもエルにとっても、大きな救いです」
重く張り詰めた空気が、わずかに緩む。
レオンは軽く息を吐き、立ち上がった。
「できれば、ティナだけでも……エル殿に会わせていただけませんか」
アザールは一瞬だけ驚いたように目を見開いたあと、すぐに頷いた。
「……エルが目を覚ましていれば、すぐにでも。ティナ殿……お願いできますか」
ティナは、コクリと頷くと深く一礼した。
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