60 / 100
第60話
応接室の扉が静かに開かれると、アザールとティナに付き添われたエルが、ゆっくりと顔を出した。
「……レオン……?」
その声に振り返ったレオンは、はっと息を呑んだ。
「エル……!」
立ち上がったレオンは、一歩、二歩と駆け寄る。そしてほんのわずかためらってから、膝をついた。王族のそのような姿にアザールもティナも驚いたが、しかし止めはしない。
「……ご無事で、本当に、良かった」
王子の声には心からの安堵が滲んでいた。彼の瞳は潤み、けれど泣くまいと堪えるように笑っていた。
エルは戸惑いながらも、そっと頷く。
「うん……アザールが、助けにきてくれたの」
その名前に、レオンはそっと目を伏せた。
「……ええ。将軍殿は、どんな障害にも怯まず、あなたを守った」
「……王様に、怒ったんでしょう? 大丈夫なの? アザールは……王様に、怖いこと、されない……?」
ぽつりと零れた問いに、部屋の空気が少し揺らぐ。
アザールも、ティナも言葉を選びかねる中、レオンが静かに立ち上がった。
「……正直、すぐに大丈夫とは言えません。でも──」
真剣な眼差しでエルを見つめる。
「私が、なんとかしてみせます。王子として……いえ、エルの友として」
「! レオン、ありがとう」
エルの小さな声はかすかに震えていた。
その日のうちに、レオンとティナはアザールの屋敷を後にした。
ティナは何度も振り返り、エルの無事を確認するように目を細める。
レオンはただ、決意を瞳に宿していた。
◇
翌朝、街ではざわめきが広がっていた。
──将軍の番を、王が攫ったらしい
──番を攫うなど、何を考えているのだ
──王はもう正気ではないのでは
この噂を流したのは、獣人であるカイラン達だ。
彼らは怒りと正義感を胸に、遠征の帰り、各地で話を広めていた。
事実、王が自らの私兵を使い、将軍の番を連れ去ったことは間違いない。
例え人と獣人の間でも、番の絆は神聖なものだ。
それを踏みにじる行為に、民衆は激昂する。
──城の門前では、抗議の声が止まなかった。
「王は何を考えておられる!」
「番を攫うなど、正気の沙汰ではない!」
「将軍殿の怒りは当然だ!」
そんな騒ぎの最中、王は執務室で苛立ちに眉をひそめていた。
なぜここまで騒がれる……。
文様の報告をしなかったアザールの罪ではないのか……!
だが、民の怒りは収まる様子もなく、次第に城内の空気も変わり始めていた。
重苦しい沈黙が続く中、扉が静かに開く。
「父上」
王子──レオンだった。
堂々と進み出たその姿に、王は眉を上げる。
「何の用だ、王子。お前も将軍に感化されたか」
「……いいえ。私は、ただ……正しさと、友の味方でありたいと思っただけです」
「ほう?」
「……アザール将軍が文様を報告しなかったのは、決して、意図的な隠蔽ではありません。あの時、遠征の命が下され、王城を離れることになったからです」
「だがそれでも──」
レオンはぐっと目に力を込める。
王の言葉を遮るように、再び口を開いた。
「文様は国を脅かすものではありません。それどころか、誰かに危害を加えるものでもない。もしそのようなものであったなら、将軍はいの一番に報告へあがることでしょう」
「……お前は文様を見たのか。あの人間の背に刻まれたそれが、国を乱すようなものではないと、どうして言い切れる」
言ってもいいのだろうか。
しかし、言わなければ、父は納得しない。
「──とても、神聖なものです。……エルは、子を成せるのです」
「……何?」
「文様のことはさておき、父上はエルを将軍の番であるにも関わらず、攫いました」
王の表情が歪む。
「民は、それを知って怒っているのです。権威を振りかざし、絆を壊そうとしたことに」
レオンは一歩前へ出て、静かに言葉を紡いだ。
「どうか、もうおやめください」
王は、しばらく沈黙した。
やがて、机の上の文書に視線を落とし、疲れたように息を吐く。
「……好きにしろ」
それは、敗北の言葉だった。
レオンは小さく頭を下げると、静かにその場を去る。
父と向き合って話す間、心臓がうるさいくらい緊張していた。
執務室を出てすぐ、待っていたティナを見てホッと息を吐く。
「お疲れ様でございました」
「ティナも。ご苦労だった。あとは……とにかく、民を鎮めなければ。そしてアザール殿に正式に謝罪をして、文様に関することは不問にすると、伝えよう」
「はい」
疲れた様子の王子だったが、ティナはまだ若い彼に王たる姿を見たのだった。
ともだちにシェアしよう!

