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第63話 春のかんむり
アザールの屋敷の裏には、草木が生い茂るなだらかな丘があった。
春になり、あたたかな命が芽吹く今日この頃。エルは部屋の窓からその丘を見下ろし、ぱあっと顔を輝かせる。
そのまま勢いよく部屋を飛び出し、廊下をバタバタと駆けていった。
止めようとする警護係のレイヴンとリチャードの声も、耳には入っていない。
「おいおい……」
「こりゃ怒られるぞ……」
二人が眉をひそめる中、エルは躊躇なく執務室の扉を開け放ち、アザールの元へと駆け込んだ。
「アザール、アザール!」
「おお、どうした?」
書類に目を通していたアザールは、少し驚いたように顔を上げたが、まったく怒る様子もなく、にこやかに手を止めた。
「お屋敷の、うしろに行ってみたいの!」
「後ろ……丘のことか?」
「おか……うん、丘! お花がいっぱい咲いてるの、見えた!」
「花が見たいのか。いいぞ、一緒に行こう」
仕事は後でもできる――そう言ってアザールは立ち上がり、エルと手を繋いで執務室を出ていった。
屋敷の裏の丘も、アザールの領地内だ。
彼の許しさえあれば、誰も咎める者はいない。
自然が広がるその場所は、確かに走り回るのにちょうどよさそうだった。
「アザール、お花、いっぱいだね!」
「ああ。時々、侍従たちに手入れをしてもらっているが……俺は滅多に来ないな」
「そうなの? どうして?」
「いや、特に理由はないが……一人で来ても、あまり面白くなくてな」
そう言って微笑むアザールの隣で、エルはふと足元に咲く小さな白い花に目を留め、しゃがみこんだ。
ひとつ、またひとつと摘み取っていく様子は、見ていて心が和むほど愛らしい。
「エル、何をしているんだ?」
「これで……輪っかを作ってみたいなって。本で見たことあるの。お花の……頭にかぶるやつ」
「ああ、花冠か」
「うん。でも作り方、わからなくて……アザールは知ってる?」
問いかけに、アザールは少しだけ考え込んだあと、隣に膝をついた。
「昔、母に教えてもらったことがある。少しだけだが、覚えているぞ」
そう言って手を伸ばし、摘んだ花をひとつ手に取る。
茎を丁寧に交差させ、編むようにして輪へと形づくっていく。
「こうやって、少しずつ花を絡めていく。力を入れすぎると茎が折れるから、優しくな」
「優しく……こう?」
「そう、その調子だ。上手いな、エル」
二人で一緒に編んでいくうち、花冠は素朴で可愛らしい仕上がりになった。
完成したそれを見て、エルは目を輝かせる。
「できた、できた……!」
「おお、よくできたな」
「……これ、アザールに。あげる」
「俺に?」
差し出された花冠を前に、アザールはきょとんと目を瞬かせた。
けれど、エルの真剣な表情に気づき、ふっと笑みをこぼす。
「一緒に作ったから……アザールにも、つけてほしいの」
「……エルが着けてくれるか?」
「! うん!」
エルは小さく頷き、そっとアザールの頭に花冠を乗せた。
大きな体格に不釣り合いなほど小さな花の輪。でも――アザールは嬉しそうに尻尾を揺らした。
「似合ってるか?」
「うん! 本当に似合ってる!」
「エルが作ってくれたものだからな。何より、大切にしよう」
ぱあっと花が咲くようにエルが笑う。
その笑顔を見たアザールの胸の奥が、ふわりと温かくなる。
春の花の香りが風に乗って流れ、穏やかな陽射しがふたりを包んでいた。
◇
そんな微笑ましいひとときに――丘の少し手前、木陰に身を潜めるふたりの男が。
「……おい、あれ見ろよ。アザール様が頭に花冠のっけてるぞ」
「ああ、見えてる。すごく嬉しそうな顔してるな」
レイヴンとリチャードだった。
警護の名目で後をついてきていた彼らは、あまりに和やかな光景に足を止めてしまっていた。
「エル様も、すごく楽しそうだ」
「ああ。こっちまで明るい気持ちになる」
「アザール様も、そりゃあ仕事よりエル様を優先するわけだな……」
「だな……」
二人はぼそぼそと囁き合いながらも、どこか嬉しそうな顔をしていた。
◇
その日の夕方。
屋敷に戻ったアザールは、いつも通りの堂々たる足取りをしていたが、ただひとつだけ、普段と違うものがあった。
それは、頭にちょこんと乗った、小さな花冠。
廊下ですれ違った侍従たちは、最初こそぎょっとしたが、すぐに「ああ……」と納得したように微笑んだ。
そして執務室に戻ると、待ち構えていたのはシュエットだった。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
「あら、なんと可愛らしい。エル様からの贈り物ですか?」
ふふっと笑うシュエットに、アザールもふっと笑みを返す。
「そうだ。屋敷に入る前、取ろうとしたらエルが悲しそうな顔をしたから、着けてきた」
「良いではありませんか。すごく、華やかでお似合いですよ」
「……これを枯れずに保存しておく方法はないだろうか」
「……ありませんねぇ」
アザールの言葉に、シュエットは笑いを堪えきれずにいた。
番から貰った贈り物。大切にしたい気持ちはわかるが、生花はどうにもできない。
アザールはわかりきっていた答えに、特別ショックを受けることはなかったが――やはり少し寂しくて。
だからその花冠を外すことなく、指でそっと輪を押さえながら、目を細める。
「あの丘に、もっと色とりどりの花を植えたら、エルは喜ぶだろうか」
「ええ、きっとお喜びになりますよ」
頭から外した花冠を胸に当てる。
スンと香りを嗅ぐと、優しい春の匂いがした。
【春のかんむり】 完
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