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第73話

 廊下の先。カイランが大きな扉を押し開けると、それまで遠くに響いていた声や音が、一気に耳を打った。 「休むなっ! 足を前に出せッ!」 「……ッ!」  鋭く張りつめた声。怒号の主は、エルにとって誰よりも親しい人物──アザールだった。  思わず隣にいたレイヴンの腕にすがる。いつものアザールとはあまりにも違う。  鋭い眼光、張り詰めた声、兵たちを威圧するその立ち姿はまるで別人のようで──怖かった。 「あーあ、タイミングが悪かったな……」 「ぁ、か、カイラン……」 「ま、もうすぐ休憩だ。ここで待ってろ。将軍に伝えてくる」  エルの戸惑いを察したカイランは、やや申し訳なさそうに頭を撫でた。 「大丈夫、怖がらなくていい。今は『将軍』をしてるんだ。お前の前ではちゃんといつもの姿だ」  その時だった。 「──エル!」 「!」  聞き慣れた、優しい声。  見れば、表情もすっかり柔らいで、アザールが足早にこちらへ向かってくる。  ほんのさっきまでの厳しさが嘘のようで、エルはホッと息をついた。 「来てたのか」 「ぁ……アザール、どうして……分かったの?」 「? エルの匂いがしたからだ」 「匂い……?」  また、『匂い』だ。  カイランもそう言っていた。けれど、自分では何も感じない。クンクンと自分の腕を嗅いでみるが、特に変わった香りなんてしない。 「みんな、そう言うの。カイランはアザールだと思ったって。僕、アザールの匂いする? あ、でも、アザールは僕の匂いって言った……」 「それは……俺とエルの匂いが混ざっているからだな」 「……どうして?」  純粋なまなざしで見上げるエルの問いに、アザールがほんの少し言葉に詰まった。  周囲のカイラン、レイヴン、リチャードは一斉に視線を逸らす。 「……俺たちが、番だからだ」 「番だと、匂いが混ざるの?」 「……まあ、そうだな……」 「?」  首を傾げるエルに、アザールはほんのわずかに逡巡したのち、少しだけ視線を逸らしながら言った。 「……交尾を、するからだ」 「……っ!」  その瞬間、エルの顔がぱっと赤く染まる。 「や……!」  恥ずかしさが一気にこみ上げて、次の瞬間には駆け出していた。  走ってはいけないと釘を刺されていたのも忘れて、建物の柱の影へ飛び込むように隠れてしゃがみ込む。 「エル!」  アザールの声が響くが、出ていく余裕なんてない。 「将軍よぉ……それはな、ヤる前に教えておいてやらねぇと可哀想だろ」 「……失念していた。獣人にとっては当たり前すぎて、な」 「恥ずかしくて、しばらく出てこねえぞ。ちゃんと謝って、機嫌とってやんねえとな」  顔を隠して周知に耐えるエルには聞こえていない。  みんなの前で、交尾って言った。  いや、それよりも、僕とアザールが何をしているのか、匂いだけで分かるってこと……!?  

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