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第74話
「エル」
「!」
穏やかで優しい声が耳に届く。
顔を上げると、アザールが眉を八の字にして目の前にしゃがみこんでいた。
「すまない、恥ずかしい思いをさせてしまった」
「……」
「言い訳になるが、獣人には『当たり前』の感覚なんだ。番同士の匂いが混じることは。特に、受け入れる側はな」
エルは首をかしげる。
「……どうして?」
「……あー……その、俺の精液を中で出すだろう」
「!」
「それで匂いが混ざる。俺のものだという印になる。獣人の世界じゃ、ごく普通のことなんだ。……交尾をすることで子供ができるのと同じようなものでな」
ようやく意味を理解したエルは、まだ赤い頬のまま、そっとアザールの肩に額を預けた。
「あ、汗をかいてしまってるから──」
「いいの」
「汚れてしまうぞ。それに臭うだろ」
「大丈夫」
短く、でもはっきりと答える。
アザールの匂い──汗、鉄のような鋼、そしてどこか落ち着く彼だけの香り。
「アザールの匂い、安心するの」
アザールはわずかに目を見開き、ふっと笑った。大きな手が背に回り、包み込むように撫でる。その温もりに、エルの羞恥も少しずつほどけていく。
「俺も……エルの匂いが好きだ。落ち着く。心が柔らかくなる」
「……じゃあ、もう少しこのままでもいい……? お仕事、戻らなきゃダメ……?」
「いいや。かまわない。好きなだけ、こうしていろ」
訓練所の片隅、柱の陰。
周りのざわめきも、この瞬間だけは別世界のようだった。
まだ胸の奥に照れは残るけれど、それ以上に、アザールのぬくもりが愛おしい。
◇
気持ちが落ち着いたエルは、アザールと手を繋いで柱の影から出る。
少し歩くと、リチャードとレイヴンの姿が見えた。
カイランは兵士たちと話し込んでいて、ふと目が合ったエルが手を振ると、軽く振り返してくれる。
「カイランも、忙しいね」
「副将だからな」
「副将は、えらい?」
「ああ。獣王軍で二番目の立場だからな」
「すごいねぇ」
エルの周囲だけ、やわらかい空気が漂っている。
アザールはしばらく、その番を見つめていたが──。
「ところでエル、何かあったのか?」
「え?」
「突然こちらに来ると報せがあったから、何かあったのかと」
「ううん。アザールのお仕事してるところ、見てみたくなって……でもちょっと、怖かったね」
「あ……すまない。怖がらせるつもりはなかったんだ」
申し訳なさそうなアザールに、エルは左右に首を振る。
「大丈夫。お仕事だからね」
ふふんと笑って、エルはアザールを手招きした。
耳元に顔を寄せれば、ぴくっと耳が動くのが可愛い。
「お仕事中は怖いけど、アザールがとっても優しいの、知ってるからね」
「!」
「だから、大好き」
耳に軽く口づけすると、アザールの尻尾が勢いよく揺れる。
赤くなったその顔が可愛くて、エルは思わず飛びついた。
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