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第75話

 そんな二人の姿を遠くから眺めていたカイランは、呆れたように溜息を吐くと「そろそろ始めるぞ」と兵士達に声を掛ける。  それを聞いたアザールは、エルに「待っててくれ。一緒に帰ろう」と言って、彼をレイヴンとリチャードに預けた。 「くれぐれも目を離さないように」 「承知しました!」 「アザール、またね」 「ああ。あとで」  ブンブンと手を振るエルが愛らしいようで、アザールは穏やかに笑みを浮かべて尻尾が揺れるのを制御できないまま、手を振ってカイランたちのもとへ戻った。 「エル様、こちらにお座り下さい」 「うん! アザール、格好いいねえ」 「そうですね。責任のあるお仕事ですからね」  そうして暫く、三人は訓練場の端で見学をしていた。  アザールは鋭い視線を放ち、鋼のような声で兵たちに次々と指示を飛ばしている。動きの悪い者には容赦なく叱咤が飛び、甘さを排した威圧感は、誰もが彼を「将軍」として恐れ、そして敬う所以だった。  エルの視線は、そんなアザールに釘付けだった。  いつもは自分に触れる手があれほど優しいのに。  今は剣を持ち、冷徹な眼差しで前だけを見据えている。  その背中に、ふと、距離を感じた。  隣にいたレイヴンがふと視線を向ける。エルの微細な変化に気付いたらしい。 「エル様?」 「……すごいね、アザール」  ぽつりと漏れたその声には、憧れと、少しの切なさがにじんでいた。 「ええ。将軍としてのアザール様は、まさに獣王軍の柱ですからね」  リチャードが静かに答える。  エルの中で、彼の番としての優しさと、将軍としての冷徹さが、ゆっくりと重なっていく。  そのとき、ふとアザールが振り返った。  訓練の合間、誰にも気づかれぬほどさりげなく、視線だけを送ってくる。  目が合った。  厳しい顔が、一瞬で柔らかくほどける。  エルにしか向けないその眼差しに、胸の奥がふわりと熱くなった。  エルは笑って、ぱたぱたと手を振った。  アザールはふと笑みを零し、尻尾が自然と揺れるのを抑えきれなかった。 「……やっぱり、アザールは格好いい」  エルの呟きに、リチャードとレイヴンは同時に頷いた。 「エル様にそう言っていただければ、アザール様も本望でしょう」 「誰よりも強く、誰よりも優しいお方ですから」  将軍としての矜持を保ちつつも、番の存在であるエルには、変わらぬ愛情を注ぎ続けるアザール。  その姿に、エルの胸はもう一度、柔らかく、温かくなった。  自分だけが知っている顔。  自分だけが許される距離。  番という絆の、確かな実感がある。  訓練場の喧騒の中。  その一角だけが、やわらかな空気に包まれていた。

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