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第77話

 それから月日は流れ、白い吐息が少しずつ薄れていった頃。  冬の冷たさが和らぎ、アザールの屋敷にも春の気配が訪れはじめた。  エルはというと、最近は屋敷の書庫にこもっていることが多かった。  抱える文献の山は、どれも分厚くて文字が小さい。ページをめくる手を止めては、眉間に皺を寄せて唸っている。  ──妊娠とは、月の満ち欠けにおいて云々……。 『だから結局、どうなるの……?』  古く硬い言い回しが多く、難解な表現ばかり。思わず頬をふくらませて、小さくむくれる。  もっと、アザールみたいに優しく、わかりやすく書いてくれたらいいのに──。  そうして難しい部分は結局、こっそりとアザールに聞いては教えてもらっていた。    そんな日々の中で、ふとした変化が訪れたのは、ある穏やかな午後のことだった。 「エル……? 眠いのか?」  ぽかぽかと陽の差す部屋で、エルはぼんやりと座ったまま、瞬きの間隔が長くなっていた。  アザールが声をかけると、小さくこくりと頷いた。 「……ん」 「寝るなら、ベッドに行こう。……抱えて運ぶよ」 「うん……」  眠気はここ数日、ずっと続いていた。朝起きては、またすぐに眠たくなる。  昼寝をしたからといって夜眠れないこともなく、むしろ夜もぐっすり寝てしまうのだ。  まるで、体の中がずっとだるくて、重たくなったみたいだった。    その晩、アザールと向かい合っていた食卓でも──。 「……ご飯、いらない……」  ぽつりとエルが呟いた言葉に、アザールの手が止まる。 「どうした? このパン、好きだっただろ」 「……ぅ、なんか……気持ち悪い……」  好きだったはずの焼きたてのパンの匂いが、今日はなぜか鼻についた。  口の中も苦くて、飲み込む気にもなれない。  エルは俯き、胸元を押さえて小さく呻く。 「……ごめんね、食べれない……」  アザールは何も言わず、椅子を引いてそっとエルの背中に手を回した。 「……横になろう。少し、休んだ方がいい」 「……うん」  アザールの胸に抱かれながら目を閉じたエルは、そのまままたすぐに眠りへ落ちていった。  その小さな寝息を聞きながら、アザールは目を細める。 (眠気、匂いへの敏感さ、食欲の低下……)  彼の瞳が、ふと鋭く光った。 「……エル、まさか──」  アザールはそっとエルを抱き上げ、寝室のベッドへ運ぶ。  毛布をかけて静かに座り、彼はしばしエルの姿を見下ろしていた。  やがて目を閉じ、深く呼吸を整える。  ──聞こえてきた。確かに。  自分のものでも、エルのものでもない、まだとても小さな、けれど確かにそこに在る心音。  アザールの尻尾が、無意識に、勢いよく揺れはじめた。  ──まさか、本当に……!  音のする方へと顔を近づけ、エルの下腹部にそっと耳をあてがう。  そこには、先ほどよりもはっきりとした、鼓動が響いていた。 「──っ……!」  喜びで喉が鳴りかけたのを、慌てて両手で口を押さえる。  吠えてしまいそうだった。嬉しさが、胸いっぱいに満ちていく。  誰かに言いたい。すぐにでも、この奇跡を知らせたい。  けれどその前に、まずエルの気持ちを聞かなくては。  まだ彼はきっと、自分の体に起きている変化に、気づいていないのだから。  尻尾が揺れるのを、どうしても止められなかった。  こんなにも心が高ぶるのは、生まれて初めてのことだった。

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