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第80話
レオンとティナが帰っていったその日の午後。
アザールの屋敷にやってきたのは、腰まで伸びた白髪と、丸眼鏡をかけたヤギの老獣人だった。
横に割れた瞳孔と、頭の角。
物腰は柔らかく、けれどその瞳には知恵の深さが滲んでいる。
「……貴方が、文様を持つ子かい。なるほど。……ふむ。文様は穏やかに脈動しているねぇ……これは美しい」
老医師はエルの体に直接触れることなく、ただその文様を眺めると静かに頷いた。
「……異常はなさそうだねぇ。文様は胎児に影響を与えることはないと思うよ。むしろ安定を与えているんじゃないかねぇ。この文様のおかげで、子ができたわけだしねぇ」
「……ほ、本当、ですか……?」
「ああ。お腹の中の命は小さいが、生きようとしているよ」
医師の言葉にエルの瞳が潤み、アザールがそっと肩に手を添える。
「よかったな……」
「うん……よかった……!」
──こうして、エルの妊娠は正式に認められ、王家の名医からも安定しているとの太鼓判を押されたことで、ホッと安心できたのだが。
続く祝福は、まだまだ、これからだった。
◇
エルの妊娠がわかってから数日後のこと。
アザールの屋敷にはカイランが訪れていた。
「エルはいるか」とやってきた彼は、現れたエルに会うと目の前に包みを差し出した。
「? これ、なあに?」
「体にいいと聞いた」
「……?」
渡された包みを開けると、さっぱりとした香りのする丸い果物がコロコロと入っている。
カイランには少し年の離れた姉がいる。
そして甥っ子もいて、実は叔父さんなのだ。
姉が甥を妊娠していた時、酷い悪阻でもこれだけは食べられたのだと、教えてもらったのがこの果実。
栄養価も高くて、医師からも推奨される食べ物である。
「そのままでも食べれる。……あ、ちゃんと皮は洗えよ」
「わ……ありがとう」
「必要な時は俺を呼べ。何かあれば助けてやろう」
「!」
「将軍の番だからな。特別だ」
ニッと笑った彼。
エルと初めて会ったあの時とは違い、ぶっきらぼうながらも優しいのだ。
「──ところでエル、将軍は?」
「あ、えっと、お仕事してるみたいだよ」
「……もちろん、俺が来たことと、俺に会うことを将軍には伝えているよな?」
「? ううん。お仕事してたから」
その言葉を聞いた瞬間、背後の廊下からピシリと音がした。
エルが振り返ると、そこには書類を片手にしたアザールが、無表情で立っていた。
その目はカイランを睨むように見ている。
「……カイラン」
「ぉ……将軍……」
「俺に何の断りもなく、エルと二人きりで話していたのか?」
「いや、別に……そういうわけでは……」
カイランが『やばい』と視線を逸らすと、アザールは優しい目をエルに向けた。
「エル、体調はどうだ。疲れてないか? 寒くないか? ──立ってると足に負担がかかるから、座ってくれ」
「え、あ……うん……?」
矢継ぎ早に言いながら、アザールはエルの手を取ってソファへ誘導する。
その横でカイランが呆れたようにため息をついた。
「……ここまで過保護になるのか」
「当然だ。エルは俺の番で、しかも妊娠中だぞ」
「……はいはい」
カイランは軽く肩を竦めながらも、そんなアザールの様子にどこか微笑ましさを感じているようだった。
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