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第82話

◇  エルの両親が屋敷に滞在を始めて、一日目。  屋敷の端の離れに設けられた部屋に通された彼らは、一見、とても穏やかだった。  エルの顔を見るたび、「ありがとうねえ」「やっぱり血のつながりって不思議ねえ」と、どこかしら感慨深げな顔をして、昔話を語った。 「昔はほら、お前、夜に雷が鳴ると布団に潜って震えてたんだよ」 「そうそう。私が『もう泣かないの?』って言ったら、首を振って、でも結局朝まで泣いてたのよ」    まるで懐かしさに浸るかのような声。  しかし例えそのような過去があったとして、エルの記憶には残っていない、幼子の時の話。  エルはどこかぎこちないながらも微笑んで、家族としての距離を埋めようと、少しずつ努力を重ねた。  夜には温かいスープを届け、記憶にない昔の話を聞く。  まるで「もう大丈夫だよ」と、過去の自分を励ますような行為に見えなくもない。  エルのやりたいようにさせていたアザールだが、妊娠していることで体調が良いわけではないエルに、それがどれほど負担になっているのだろうかと、心配だった。  ──そして。  リチャードは夜の巡回中、ふと視界の隅で人影を見た。  窓の外にちらりと見えた影。  誰かが、屋敷の裏手に向かって歩いていた。  リチャードがそちらへ行ったときにはもう誰の姿もなかったが、どこか嗅いだことのあるような匂いが薄らとした気がした。 「……誰だ? この時間に、裏手に回る理由なんて……」  その夜の警備記録にも、訪問者の出入りはなかった。  だが翌朝、シュエットが違和感を覚える。 「……この鍵束……一部が、昨夜一瞬、見当たらなかったと……?」  控えの侍従が青ざめた顔で報告する。  すぐに戻っていたため大ごとにはしなかったというが、シュエットは念のために鍵の動線を確認させた。 「不用意な抜け道が……あるとは思いたくありませんが、今夜は念を入れて警備を強化しましょう」 「はい」  そんな侍従たちの不穏な動きをよそに、エルは二日目の昼下がり、また両親の部屋を訪れていた。 「昨日より……顔色、よくなったみたいね……」 「ええ、おかげさまで。エルが優しくしてくれるからだよ」  母がそう言ってエルの頭を撫でる。  それは温かいようでいて、どこか乾いた手だった。  ビクッと一瞬揺れたエルを、母は相変わらず薄く笑みを浮かべながら見ている。 「優しい子に育ってくれて、ほんとうによかった……」  その後ろで、父親は無表情のまま、ただジッとエルの背中を見つめていたことに、エルは気付かなかった。

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