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第83話

◇  そして、二日目の夜。  エルは早めにベッドに入り、アザールは残っていた仕事を片付けるために執務室に籠っていた。  夜の屋敷は静かで、時折吹き抜ける風の音だけが耳に残る。  しかし、その裏では、いつもと違う足音があった。  屋敷の裏門。  普段あまり使われることのない、小さな勝手口。  そこに、一人の影が忍び寄る。  兎の獣人。かつてはここで働いていた男──ラビスリの姿があった。  すでに鍵は開いていた。  それはまるで、彼の侵入を誰かが手引きしたかのように。  音もなく扉が開き、侵入者の姿は闇に溶ける。  重く湿った空気の中、ひときわ鋭い目が光った。 「……あの人間……絶対に殺してやる……」  静かな囁き。  それを聞く者は誰もいない。  一方その頃、シュエットは主に夜食を持っていこうと廊下を歩いていた。  どこか胸のざわつき、その事をアザールに相談しようとも考えていたのだが、暗い廊下を進むと、ふと香ってきた血の香り。  シュエットの表情が強張り、香りが強くなる方に歩みを進めていく。  するとそこには、今夜屋敷の巡回を担当していたリチャードが、血を流し倒れていた。 「リチャードっ!」  駆け寄ったシュエットが肩を抱き起こすと、彼は苦しげに眉を寄せながらも意識を保っていた。 「……やられました……ッ。ら、ラビスリ、が……」 「ラビスリ……ッ!?」  すぐに周囲に警戒の号令を飛ばす。 「侵入者だ! すぐに全扉と出入口の確認を! エル様のもとに誰か向かわせろ!」  シュエットの声は屋敷にいる獣人達に届くほど大きな声だった。その言葉を聞いた者たちは一斉に動き出す。  一瞬にして、屋敷内に緊張が走った。 ◇  エルはふと目を覚ました。  誰かが叫ぶような声が聞こえたからだ。  そばには誰もいない。確かリチャードとレイヴンは巡回に出ていたはず。  気のせいかと、再び目を閉じようとして──突然ベッドに寝転がる自分の上に、見覚えのある兎の獣人──ラビスリが覆い被さってきたことに驚いて、咄嗟に悲鳴をあげそうになった。  悲鳴はラビスリの手に口を覆われたことによってあげることができず、目を見開いて固まることしか出来ない。  警備係は傍にはいない。きっとアザールがすぐに仕事を終わらせてくるだろうと思っていたから、エルは気を遣い『大丈夫』と断っていたのだ。  まさか、こんなことになるだなんて、思ってもいなかったから。 「おまえだけは……許せない。あの人を狂わせた、おまえが──」  エルは動こうとするが、体が言うことをきかない。  目を見開き、必死にベッドの奥へ後ずさろうとするも、まるで四肢に重りがついたようだった。  ラビスリはゆっくりと、まるで壊れた人形のように、笑っていた。 「アザール様の番だって? 子どもを孕んだ? ……ふざけるなよ。誰がおまえなんかを……!」  殺気を孕んだ声。  目には明確な敵意が宿っていた。  ラビスリは人間の手によって家族を亡くしている。  だからこそ、エルという存在が尊敬していたアザールと共に在ることが許せない。  それなのに、子どもができたなど、許せるわけがなかった。    エルには文様があると国王陛下に密告した後、ラビスリはひっそりと隠れて生活をしていた。  きっと王が人間を始末してくださると考えていたのだ。  しかし、そうはならなかった。  それどころか、民衆は王を批判した。  ふつふつと湧いてくる怒り。何処にもやれない虚しさが溢れて溢れて止まらないのだ。  人間への恨みは、まるで全てエルが根源であるかのように感じた。  そして、王を批判しエルを支援するような、そんな民と同じ場所では生きられないと感じ、国の端っこ──奇しくもエルの生まれ故郷の近くで身を隠していた。  なんという不思議な縁か、そこで出会ったのがエルの両親である。  

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